2024年4月26日(金)

ペコペコ・サラリーマン哲学

2009年12月14日

 昨年秋に亡くなった次兄・功の一周忌が11月28日に目黒のお寺でありました。次兄の奥さんから孫の世代までの家族8人が、そのなかにいました。そこで私は、戦時中の次兄の思い出話を、上の写真を見せながら、大きな声で10分ほどしました。家族8人はもとより、親類、知人のほとんどの人が先のエピソードを知らなかったようで、びっくり仰天していました。

 あの時代は、次兄に限らず、みな軍国青少年でした。かく言う私もです。私はほかのすべての学友とともに、国民小学校の軍国少年でした。次兄の功は、太平洋戦争が始まった17歳から急速に軍国主義を信奉して、愛国者に染まりきっていました。私がこのコラムの第3回で「明るいニヒル」が大切と書いたのは、一方向に振れてしまう傾向の強いわれわれ日本人一人ひとりがバランスを失うと、人間・民族の運命を決定してしまうと思うからです。

 亀井君が大塩平八郎、西郷隆盛、ゲバラを尊敬しているのも、私が農学部農業経済学科の卒論に「日中貿易」を書いたのも、なんと言っても、戦争だけは嫌だ(原爆はひどい)という思いからだと思います。

アメリカに対する複雑な気持ち

 私は、徹底的な自由主義・資本主義の中で1円の利益を追求するふるさと信越化学で働きました。米国へもたくさん出張しましたから、自由と資本主義のすばらしさ、それを世界に広めた米国の凄さ、すばらしさを体でも心でも感じています。でも米国との戦争、米国から投下された原爆のことを思うと、どうしても複雑な気持ちになるのです。

 ノーベル平和賞をもらった米・オバマ大統領の戦争を容認する演説を聞いて、私はますます複雑な気持ちになっています。

 私や亀井君ら、都立大泉高校の同窓生は、終戦のとき8歳か9歳でした。国民学校で軍国主義社会の影響を受け、1941(昭和16)年に太平洋戦争が始まり、昭和17、18、19、20年と、年を追うごとに生活がどんどん厳しくなりました。

 小学校5、6年、中学校1、2、3年と、戦後の生活もとても貧しいものでした。

 私の通った東京学芸大学附属大泉小学校の6年生の修学旅行は、箱根への1泊旅行でした。行けること自体は幸せでしたが、私のリュックサックは紙製でした。歩いていると雨が降り、リュックサックはボロボロに溶けてしまい、それを風呂敷に包んで手に提げて歩きました。第17回で登場した渡辺 蔚(わたなべ・しげる)君など、セレブな家庭の子供のリュックサックは布製で、うらやましかったのを覚えています。

 大泉高校ではこんなことがありました。同学年の450人中、1番から10番くらいの学力のある連中は、表だって、君が代斉唱反対運動をしていました。みんな戦争が嫌いでした。学力のあまりない私も内心はこの運動に賛成でしたが、気が小さいので、行動は起こさず傍観していました。

 ある同窓生が最近、こんな話を私にしてくれました。

 「君が代反対運動をしていたみんなで、両角(もろずみ)英運校長のところへ文句を言いに行こう、となった。ところが、部屋に入る前に亀井君が消えた。亀井君の気の小さい一面が垣間見えた。先頭に立って校長室に入っていったのは、あの下 壮而(しも・そうじ)君だった。

 大泉高校への編入を許可してくださった、両角先生に盾つくことは、さすがの亀井君もできなかったのだろう。しかし、それならばはじめから正直に“君が代斉唱は反対だけれど、俺は両角先生だけには言えないのだよ”と言うべきだった」

 青少年時代のほほえましい一幕です。

 戦時中も戦後も、私の両親はさぞ大変だったと思うが、亀井君のご両親はもっともっと辛くて大変だったでしょう、と想像しています。亀井君のお姉さん、そして私の義兄、次兄にペコペコです。

 

■読者のみなさまへ
筆者自身が述べておりますように、このコラムは、読者の方々からいただいた情報のおかげで、当初は想定していなかった広がりを見せております。どのようなことでも結構ですので、ご感想などございましたら、こちらからお送りいただければ幸甚です。 (編集部)

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