ペコペコ・サラリーマン哲学

2009年11月11日

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 これまで3回にわたり、「高校同窓生からみた亀井静香氏その1その2その3」として、東京都立大泉高校時代の同窓生について語ってきました。

 亀井静香郵政・金融担当相、今年(2009年)亡くなった渡辺 蔚(わたなべ・しげる)君、26年前に46才で亡くなった下 壮而(しも・そうじ)君。みんな、私にとっては近寄れない友でした。

 前3回を読んだ方から、「金児さんは友だちに恵まれていますね」「こういう友だちがいたから金児さんのような人間ができたんですね」などと言われますが、残念ながら、これはまったく違います。私にとっては、彼ら3人とその周囲にいる人たちは優秀すぎて、親友と言えないことはもちろん、友だちとも決して言えない人たちでした。

二度失敗した大学受験の間に亡くなった父母

 私は、1955年に都立大泉高校を卒業しましたが、その年の大学受験(3日間)で、しょっぱなの数学の問題(6問)が1問も解けなくて、初日の夜から次の年の受験勉強を始めました。

 父が54才、母41才のときの末っ子だった私は、父母がおこがましくも海軍の山本五十六元帥にならって偉い人間にしようと考えたために、生まれて一週間は金児五十四(いそし)だったそうです。けれども四がつくのは良くないと考え直し、急に偉い人間にしようという志がなくなりました。その結果、兄姉がすべて大正生まれで、初めての昭和生まれの子だからという単純な理由で、昭となりました。

 2回目の受験は、父が病で床に伏している中での挑戦でしたが、数学はまたまた1問しか解けず、桜はまた散りました。当時は予備校の試験も結構難しく、「6倍の競争率の中で受かった」と嬉しそうに、大塚のガン研究所の病床に伏せる父親に報告したら、力のない声で「バカモン、大学に受かってからニコニコしろ」と言われました。

 父はその後しばらくして帰らぬ人になり、そのあとすぐに母が脳内出血で倒れ半身不随になりました。午前中は睡眠をとり、夕方から予備校。病人は夜が寂しいということで、夜中から明け方まで母の横で勉強をしました。

 2年間同じ予備校に通いましたが、渡辺君と私が通った学芸大学附属大泉小学校で教師をしていた長兄の賢治・富子夫婦がずっと親がわりの支援をしてくれました。3回目の受験で数学が3問解けて、やっとのことで入学できました。今でも日本史で60点中7点だったのは忘れられません。

 桜の季節、ようやく籐椅子に掛けられるようになった母に大学帽をかぶって見せたとき、麻痺で口元が曲がったままの嬉しそうな笑顔は今でも夢に見ます。その母もその春に急逝しました。

 友人たちの励ましのもと、英文学科に進み、高校の英語の先生になろうと意気込みました。英語のリーダーはあのメルビルの「白鯨」でした。「あの」というのは、その後30年もして一橋大学の先生が朝日新聞に「メルビルの白鯨はとても難しい・・・」と書いておられたのを読んだからです。

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