ペコペコ・サラリーマン哲学

2009年11月1日

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 このコラムの前回(第16回)前々回(第15回)で、亀井静香郵政・金融担当相が東京都立大泉高校の同窓生であること、同学年には下 壮而(しも・そうじ)という学力ダントツ中ダントツの1番がいたことをお話ししてきました。

 実は、私たちが敬意を払っていた同窓生がもう一人います。渡辺 蔚(わたなべ・しげる)君です。渡辺君は、今年(2009年)夏に亡くなりました。私はいま、渡辺君への心からの追悼の気持ちで、この文を書いています。後に日本第一級のコピーライターになった渡辺君は、学力だけでなく、感性がとても豊かな、訥々(とつとつ)とした人でした。

 都立大泉高校の同学年450人のなかの1人であった私にとって、ダントツ1番の下君も、2番から10番くらいで仲良くしている亀井君や渡辺君などのグループも、気軽に"友だち"とは呼べないくらい、優秀すぎて届かぬ人たちでした。実は一つ、心から感謝したいことがあります。「1番と2番の差」が、「2番と450番の差」と同じというくらい、学力がずば抜けていた下君の存在のおかげで、私など学力不足の者たちは、卑屈にならずに楽しい学生生活を送ることができたことです。

 亀井君が「モラトリアム」をぶちあげて以来、数人の同窓生から電話がありましたが、みな興奮して亀井君のことを話します。26年会っていない私と違い、折にふれ亀井君と会っていた人には、亀井君がいつも「渡辺君は元気か」と必ず聞いていたそうです。

 西武池袋線江古田駅近くの斎場での渡辺君のお通夜には亀井君の姿がありました。亀井君と渡辺君はお互いにその能力を評価しあっていたとのことです。

服部珈琲舎のカップ

 先日、渡辺君と親しくしていた同窓生の一人から、渡辺君のとある講演録が届きました。読んでみると、あまりにも衝撃的で素晴らしいものでした。

 信越化学工業に勤めていた私は、35歳くらいのとき、ひょんなことから渡辺君と再会し、池袋駅東口の大通りをへだてた正面にある服部珈琲舎(大正2年創業)で、たびたび会うようになりました。これから書くことは、渡辺君自身からいろいろ聞いてはいたのですが、改めて、言葉できっちり人に話した講演の記録を読むと、渡辺君が首尾一貫した考え方で一生懸命生きていたんだな、と深い感銘を受けます。渡辺君から聞いてきたことと、この講演録の内容を組み合わせて、渡辺君の生き様を、私なりに以下に記したいと思います。

片眼の視力をほぼ失った渡辺君

 1975年(昭和50年)、渡辺君は、後楽園球場で野球を観戦していたとき、ファウルボールの猛ライナーを顔面に受けました。すぐ病院に運ばれましたが、病室のドアが開くと、その空気の動きだけで、髪の毛が針になって頭に刺さってくるような感じで、あまりの激痛に転げまわって苦しんだそうです。激痛は3日間でやんだものの、鈍痛は4、5年の間ずっと続いたとのことです。

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