2024年5月8日(水)

ペコペコ・サラリーマン哲学

2009年11月1日

 渡辺君は2カ月で退院しましたが、片眼の視力をほぼ失いました。しかし、わずかに残った視力のために、片眼望遠鏡、片眼顕微鏡みたいな感じになって、頭がクラクラしてしまったのだそうです。

 先ほど書いたように、学力だけではなく芸術的なセンスにもあふれていた渡辺君は、大学では法学部から文学部美学科に転部しました。卒業後は博報堂に勤務し、その後、数人で「レマン」(フランス語で"手"という意味)という会社を設立し、コピーライターとして独立していました。

 渡辺君はこう言っています。コピーライターはモノ書きなのに、自分で読めない、書けないとなると大変痛手だった。けれども、秘書に口述筆記してもらってなんとか仕事は頑張れた。しかしそれ以上にショックだったのが、熱狂的に好きだった本が読めなくなったことだ、と。「小さい頃から本を読みながら道を歩いていても電信柱にぶつからないという特技をもっていた」とありますから、本が読めなくなったことは本当に辛いことだったでしょう。

テープ図書と盲人マラソン

 本が読めなくなった渡辺君は、「聴読」に出会います。事故の何年か前から知ってはいた日本点字図書館に行き、ボランティアの方が朗読して作ってくれるテープの本を借りました。聴読は目読の3倍くらい時間がかかるから、最初はイライラしたが、すぐに、作品の感動に加えて、朗読している方の温かい気持ちがオーバーラップしてきて感動が倍になることに気づいたそうです。イヤホーンで満員電車の中で聴きながら、涙が流れ続けるくらいのめり込んで聴き、1回200時間かかる吉川英治の「新平家物語」は3回聴いたそうです。

 「そのテープが、十何年前にどこかで朗読されたものではあっても、今、この瞬間、そのテープを聴いて涙を流している自分と、その朗読者とは、時間空間を越えて『一つの感動』を共有しているのではないか、ということを強く感じた」と渡辺君は言っています。

 往復2時間、昼飯1時間、寝る前2時間、聴読する毎日を5年ほど続けた渡辺君は、無意識のうちに、悪い方の眼は使わずに、片眼で活字が読めるようになりました。そうなると、著作権法の関係もあって、テープ図書を聴く資格がなくなるそうです。でも、そのころすでに、渡辺君全体の中でほとんど半分ぐらいを占めていたテープ図書が読めなくなるのは、いかにも寂しかった。そこでどうしたか。

 渡辺君は、読み手の側にまわって、「感動の共有」を続けたのです。日本点字図書館の「朗読者養成講座」に1年間、隔週の土曜日に20回通って、45歳のとき朗読者の資格を取りました。それから16年で、約120冊もの本を朗読します。朗読は、私たちが思っているよりずっと大変です。地名、人名含め、読み間違いは絶対許されないから、思い込みを排して、あらゆる言葉を片っ端から辞書を引かなければいけない。1冊朗読するのだけにかかる平均時間が10時間とすれば、下調べを含めればその5倍くらいはかかるそうで、120冊×10時間×5だと6000時間を朗読に費やしたわけです。それを、「時間を使ったというよりは、楽しませてもらった」と言うのが渡辺君のすごいところです。さすが、ボランティアにレジャーをくっつけて「ボランジャー」という言葉を作り出すだけのことはあります。

 渡辺君が楽しんでいた「ボランジャー」はもう一つあります。「盲人マラソン」です。

 実は、渡辺君と私は、小学校5年生から、中学校、高校、浪人時代、大学と計14年間も一緒でした。だから、渡辺君が運動嫌いなのはよく知っています。その渡辺君が、「盲人マラソン」をやるのは並大抵の努力ではなかったと思います。

 大学卒業後20何年たった渡辺君は、奥さんの勧めもあってジョギングを始めます。はじめはイヤイヤだったが、練馬走友会みたいなエリートランナー集団に入れば、子どものころの運動のイヤな感じを思い出して走るのをやめるに決まっている、と悩んでいたら、知人に盲人マラソンを紹介されたそうです。


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