生前退位の意向を天皇が伝えたという報道は、日本全体を大きく揺るがした。既に指摘されているように、現行の皇室典範において皇位の継承は天皇が崩御したときと定められており、天皇の生前退位を実現させるのであれば少なくともこれについて定めている第四条の改正が必須となる。
宮内庁はこうした報道を否定するとともに、天皇の生前退位そのものを認めない方針を示している。その理由として、退位後の上皇や法皇の存在が弊害を生むおそれがある、本人の意思に基づかない退位があり得る、天皇が恣意的に退位する可能性もあることを過去に国会の場で挙げており、生前退位を認めることで天皇の地位が不安定化することを懸念していると伝えられている。
こうした懸念は、諸外国の君主国家の事例を見ていくと、必ずしも見当外れのものとはいえないだろう。中東地域には現代においても君主制の国家が8カ国存在するが、君主の地位を巡る紛争は数多く起こってきた。国によっては病気などの理由により君主が職務の遂行をできなくなった場合には王位の継承が認められている場合があり、生前退位が制度上完全に制限されているわけではない。
しかし、それは生前退位が制度化されているということを意味しておらず、依然として君主の地位は終身であることが前提になっている。そのため、中東地域では君主は統治者として政治的な権力と一体化していることもあって、権力闘争によって既存の法制度や政治的慣習を超越する形で王位の継承が行われてきたという事例も少なくない。日本と中東では歴史や文化、社会が大きく異なるため、単純な比較はできないが、天皇の生前退位を巡る問題について議論を整理するためにも、中東の君主国の事例をいくつか紹介をしてみよう。
望まざる退位と宮廷クーデターの懸念
生前退位を認めることに関する最大の問題は、本人の意思に基づかない退位がありうることであろう。中東においても、王位継承権のある他の王族が君主を追い落とす宮廷クーデターの事例は枚挙に暇がない。例えば、オマーンの現国王であるカーブースは、1970年に英国の支援を受けて父であるサイード国王を追放して王位の座に就いた。カタルでは、先代にあたるハマドは1995年に、先々代にあたるハリーファは1972年に、いずれも君主が国外で不在の間にクーデターを起こし、王位を奪っている。
アラブ首長国連邦(UAE)を構成するシャルジャ首長国では、1965年、1972年、1987年と連続して宮廷クーデターが起き、サクル前首長が従兄弟にあたるハーリド首長に対して起こした1972年のクーデターでは、ハーリド首長が殺害されるという事態に至っている。もっとも、連邦政府はこのクーデターを認めず、軍事力を持ってこれを鎮圧させ、サクルは8年間刑務所に収監されることになった。新たな首長にはハーリドの弟のスルターンが就き、現在までその地位を維持している。