チャイナ・ウォッチャーの視点

2010年5月26日

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平野 聡 (ひらの・さとし)

東京大学大学院法学政治学研究科教授

1970年、神奈川県生まれ。東京大学法学部卒業。東京大学法学部教授。アジア政治外交史担当。著書に『大新帝国と中華の混迷(興亡の世界史17)』(講談社)、サントリー学芸賞を受賞した『清帝国とチベット問題 多民族統合の成立と瓦解』(名古屋大学出版会)がある。

 迷走を続けた普天間基地移設問題が結局もとの辺野古移設計画に立ち返り、これまで「沖縄の思い」「最低でも県外」という言辞によってかきたてられた沖縄の民意が激しい憤りへと転じている。そのような中、鳩山由紀夫首相が沖縄県の諸首長に対して辺野古移設を説明した場所が名護市の「万国津梁館」(2000年に開かれた九州・沖縄サミットの首脳会議場)であったというのは、筆者からみて皮肉を通り越し、沖縄の傷にさらに塩を塗り込めるもののように思える。

「日清両属」の立場にあった沖縄

 「万国津梁」とは、沖縄県立博物館に現存する首里城正殿の鐘に刻まれた、いわば沖縄のアイデンティティの象徴である。古来、日本・中国・朝鮮半島・南海諸国からの貿易船を集めて繁栄を極め、さまざまな文化を「ちゃんぷるー」して(混ぜ合わせて)独自の価値を育んだ沖縄の地は、まさに万国をつなぎ合わせる梁のような存在だ、というのである。このような意識に照らせば、沖縄は決して日本列島の末端ではない。海洋世界の中心である。

 かつて交通が不便で、沖縄=琉球を取りまく諸国家がそれぞれ内向きで互いに疎遠であった時代、海に生きる沖縄はまさに隣接諸国との重層的な関係の中で利益を受けることができた。琉球王国は明・清に朝貢して恩恵を得るいっぽう、その利益に目を付けた薩摩に侵攻されて以来、薩摩という存在を介して「日本の幕藩体制に連なる異国」でもあった。そして琉球は、薩摩ではない「異国」として幕府から認知されることで、王朝としての自立性を保ち得たのである。前近代の沖縄は「日清両属」であった。

 しかし、排他的主権を行使する近代主権国家システムが19世紀半ば以降流入すると、日本は琉球の「日清両属」を廃すべく、東シナ海を挟んで清と激しく対立した。その結果が、1879年の沖縄県設置と琉球王国の消滅である。

 その後の沖縄がたどった歴史は紙幅の都合上詳述しないが、沖縄の言語・文化に加えられた改変や沖縄戦の惨禍はヤマトが引き起こした、という意識は当然残らざるを得ないし、米国への従属ではなく日本国民としての尊厳を得ようとした本土復帰も、基地問題の現実もあって決して沖縄から見てバラ色のものではない。その一方で、沖縄には「癒しの島」としての意味が付与され、観光客に都合の良い華やかな世界がつくりだされてきたのである。

基地を日本から動かせない理由

 基地の重圧は、すぐに改められるものであればその方が良いに決まっている。 筆者は米軍厚木基地(神奈川県大和・綾瀬市)の目の前で育ち、長年米軍機が引き起こす恐怖を身にしみて体験しているので、沖縄の人々の不満は当然のものとして理解できる。それだけに、日米安保に伴う負担が基地周辺に過度に集中している現状を変えたいという鳩山首相の信念自体は評価したいと思う。

 しかし、純粋な善意が具体さや現実さを伴わないならば、それは往々にして理想の空回りに終わり、期待が裏切られたことに伴う憎悪が残るだろう。とくにアジア太平洋地域の国際関係について言えば、第二次大戦直後から朝鮮戦争の頃にかけて一気に変動したのち、その基本的な構図は変わっておらず、日本が地域の安全保障の根幹を主導的に変える余地は、そもそも極めて限られている。

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