先制攻撃を真剣に準備した米軍
米軍による北朝鮮攻撃が議論されるのは今回が2回目だ。前回は第1次核危機と呼ばれた1994年春だった。この時は、板門店での南北協議で北朝鮮代表が「戦争になればソウルは火の海になる」と発言して大騒ぎになった。
米軍による同年5月の試算では、朝鮮半島で戦争が勃発すれば、最初の90日間で米軍兵士の死傷者が5万2000人、韓国軍の死傷者が49万人とされた。クリントン米大統領はこの報告を聞いて、武力行使ではなく外交努力を続けることを指示したが、その後も状況は好転しなかったため6月には再び武力行使の可能性が高まった。結局、個人の資格で訪朝したカーター元大統領が金日成主席(故人)から譲歩を引き出したことで武力行使は回避された。国防総省の6月の見積もりでは、韓国における民間人の死者は米国人8〜10万人を含む100万人だった。
韓国の金泳三大統領(故人)は、クリントン大統領との電話で武力行使に反対したと回顧録に記している。金泳三氏は「60万人の韓国軍は一人たりとも動かさない。朝鮮半島を戦場にすることは絶対にだめだ。戦争になったら、南北で無数の軍人と民間人が死に、経済は完全に破綻して外資もみんな逃げてしまう。あなたたちにとっては飛行機で空爆すれば終わりかもしれないが、北朝鮮は即座に軍事境界線から韓国の主要都市を一斉に砲撃してくるだろう」と訴えたという。
もっとも当時は「核危機」とはいっても核開発を疑われるというレベルの話であり、ミサイルにしても日本を射程内に収める中距離弾道ミサイル「ノドン」の開発を急いでいるという段階だった。
ソウルは「火の海」になるか
北朝鮮軍の砲撃に着目した分析には、米ノーチラス研究所が2012年に発表した報告書「Mind the Gap Between Rhetoric and Reality」がある。米陸軍の退役軍人である専門家による分析で、「北朝鮮はソウルを火の海にはできない」と結論づけた。ただし、それは「ソウルに被害が出ない」という意味ではない。何万人かの犠牲は出るが、それは「火の海というほどではない」という内容だ。
英語で「collateral damage(付随する損害)」と呼ばれる民間人の巻き添え被害は、どんな軍事作戦でも避けがたい。そうした軍事的な常識が背景にある。一般的な日本人が持つであろう「被害」という言葉との認識ギャップには注意すべきだ。
試算は、ソウルに被害を与える北朝鮮の装備として240ミリ多連装ロケット砲(射程35km)と170ミリ自走砲(同60km)を挙げる。そして、(1)240ミリ多連装ロケット砲の射程に入るのはソウル市の北部3分の1程度、(2)すべての装備を一斉に稼働できるわけではない、(3)ソウルには2000万人分の退避場所(地下鉄駅や地下駐車場などが指定されている)があるので、最初の一撃を受けた後には多くの人が退避施設に入って難を逃れる、(4)北朝鮮軍の砲弾の不発率は25%程度に達する、(5)米韓両軍の反撃によって北朝鮮の野砲は1時間に1%という「歴史的」なペースで破壊される——などと想定した。
それによると、北朝鮮がソウルを標的に攻撃をしかけてきた場合、最初の一撃で3万人弱、24時間で約6万5000人が死亡する。北朝鮮の装備は数日で沈黙させられることになるため、1週間後でも死者数は8万人と見積もられた。この程度では「火の海」とは呼べないということだ。
ただし、韓国は240ミリ多連装ロケット砲の射程をソウル全域に到達可能な60kmと考えている。しかも韓国の16年版国防白書によると、北朝鮮は射程200kmに達する新型300ミリ多連装ロケット砲の配備を始めている。この試算が行われた時には存在しなかった兵器である。