足立倫行のプレミアムエッセイ

2018年7月1日

»著者プロフィール

 アメフト部の悪質なタックル事件が、いつの間にか大学当局の隠蔽・暴力的な体育会系経営体質の問題にまで発展した日大問題。

 5月のメディアを席巻したこの日大の組織構造を巡る問題で、50年前の日大闘争を思い浮かべた人は少なくないと思う。

 私もそうだった。

(ronniechua/GettyImages)

 責任意識の希薄さと強権ぶりにおいて、50年前の古田重二良・日大会頭と現在の田中英壽・日大理事長は何と似ていることか、と。

 ただし、私は日大関係者ではないので、私自身に日大闘争の体験や記憶はない。

 私が「日大闘争」という単語ですぐに想起したのは、日大全共闘(全学共闘会議)の元議長、秋田明大氏の顔つきと言葉である。

 1976年3月、週刊誌『平凡パンチ』に出入りするフリーの記者だった私は、デスクから「秋田明大を取材してきてよ。映画に出た後、今度はレコード吹き込んだらしいけど、どういうことか聞いてきて」と言われた。

 署名記事ではないが、扉を入れて計5ページの人物ルポ。まだ駆け出しのフリー記者にとってはけっこうな大仕事だ。

 週刊誌の取材準備期間は短い。

 レコード会社の担当ディレクターを通して秋田氏への取材をまず申し込み、当該レコードの郵送を依頼し、制作意図を聞いた。

 次いで「困った時の大宅文庫」。過去の雑誌が揃っている京王線八幡山の大宅壮一文庫に行って、「日大闘争」「秋田明大」の関連記事を調べ、必要部分をコピーする。

 学生運動に詳しい評論家にも会う。

 前年に〈東京キッドブラザーズ〉の演出家・東由多加氏が監督した秋田氏主演の映画『ピーターソンの鳥』は、もう上映していないが、映画会社に連絡して、パンフレットと宣伝用の写真を入手した。そして、大手書店を回り、秋田氏の著書『獄中記』を購入。

 それからカメラマンを同行し本人の取材である。秋田氏は当時、原宿・表参道の裏手の木造アパートに住んでいた。

 2階の5畳半。少量の本とカセット、それに電気ゴタツしかない簡素な室内だ。

 そこに、太い眉、がっしりした鼻、繊細な瞳に無精髭の、あの、「秋田明大」がいた。

 「映画の出演の次はレコードって、芸能界入りとかも考えてます?」

 「いや、全然。誘いを断わる理由がなくてやっただけで、今は無職です」

 私は彼に、1970年に大学闘争を退いた時の思いやその後の約5年間の遍歴(各地で配管工などの肉体労働)、さまざまな女性との関わりなどについて、話を聞いた。

 その間、脳裡に点滅していたのは、大勢の日大生を前に、両手でマイクを握りながら「学友諸君!」と呼びかけていたニュース映像の中の日大全共闘議長の姿だった。

 革命理論を下敷きにしたセクト(党派)の学生運動と違い、一般学生の疑問や不満を束ねた全共闘方式の学生運動は、1968年の東大と日大の闘争から始まった。

 東大闘争は医療界の封建性を支える医学部のインターン制度反対が発端だったが、日大闘争の方は、20億円を超す大学側の使途不明金問題がキッカケで、わかりやすかった。

 しかも、日大の学生は普段から抑圧されていた。大教室のマスプロ教育で知られ、校舎にはキャンパスさえなかった。会合や掲示物はすべて検閲制で、言論・表現・集会の自由は皆無。「学生会」は御用自治会だった。

 抗議集会を開いたり本当の自治会の結成を企てれば、直ちに大学当局が右翼や体育会系学生を使って暴力による弾圧を加えた。

 そんな中で、「全理事総退陣」「経理全面公開」「集会の自由」などを掲げ「古田体制打倒」を叫ぶ、秋田氏ら各学部有志学生による日大全共闘が、68年5月に発足した。開学以来初めての一般学生による民主化闘争だ。

 ハイライトは、9月の大衆団交だった。

関連記事

新着記事

»もっと見る