足立倫行のプレミアムエッセイ

2018年2月6日

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 今年は明治維新150年の節目である。

 しかし区切りの良い節目なら、50年前の明治維新100年(1968年)があった。その年、私は満20歳の大学生だった。

 1968年10月23日、日本武道館で政府主催の〈明治百年記念式典〉が開催され、天皇・皇后両陛下を迎え約9000人が出席した。

 当時つけていた私の日記を見ると、同年9月25日のページに、「NHKが10回以上続く明治百年記念の特集番組を放映しており、その西洋音楽編をこの日見た」と記しているから、マスコミでも幾つか付随する企画やイベントがあったのだろう。

 けれど、当時の私は日本近代化100年の歩みに関心はなかったし、日本全体でも、多方面から歴史を検証しようとする意欲(や余裕?)はほとんどなかったように思う。

(Ryan McVay/iStock)

 それより、目前の騒々しさだ。1968年と言えば、何よりも大学紛争の続発である。

 66年の反共産党系の三派系全学連の結成を契機に、ベトナム戦争反対・新国際空港建設反対など「反体制」を掲げるセクト(党派)主体の学生運動は前年から続いていたが、68年にはインターン制度反対の東大医学部闘争が各学部を含む東大全共闘の結成へと発展(7月)、日大でも20億円の使途不明品問題追及から学生による全学共闘会議が結成(5月)され、一般学生を巻き込んだ大学紛争は燎原の火のように全国に燃え広がって、この年実に計116の大学で紛争が勃発した。

 海外でも同様だった。アメリカのコロンビア大学では軍学協同を非難する学生らが大学校舎を占拠(4月)。フランスでは、ソルボンヌ大学での管理強化抗議集会がカルチェ・ラタン地区での市街戦にまで拡大し、「五月革命」と呼ばれド・ゴール退陣の引き金となった。これら既成の権威に「異議申し立て」する若者の反乱(スチューデント・パワー)は各国の為政者たちに脅威を与え、国の内外が何やら革命前夜の様相だったのである。

 約1500人の学生らが新宿駅周辺を無法区と化した10 ・ 21国際反戦デーはその時の山場の一つだが、私は、地下鉄の最終電車に乗り込んできた彼らのことを日記に書いた。

 ヘルメットにゲバ棒、車両を埋める薄汚れた服装の若い男と女。女の姿もかなり多い。

 私の前に一人の男が座っていた。唇に唾の跡が乾燥してこびりついており、組んだ指は泥で汚れていた。疲れ果てた虚ろな表情だが、時折カッと目を見開いて周囲を見回す。

 「良心に従って行動したのだ」と私は思った。けれど「決して満足ではなかった」と。

 ヘルメットにセクト名がないので、個人で参加したノンセクト・ラジカルなのだろう。

 私は、自分も海外に出ていなければ、今頃は彼と同じことをしたはずだ、と思った。

 私は1年生終了後、1年間休学し、アメリカのキリスト教系平和団体の研修でアメリカに8カ月、北欧に3カ月滞在し、68年の3月末に帰国して、4月から2年生に復学した。

 その体験でいろんなことを学んだ。その一つが自分の資質だ。一時政治家志望だったが、政治より文化志向だと気付いた。「正義」ではなく「幸福」により関心があるのだ。

 帰国して耽溺したものに映画があった。

 68年の『キネマ旬報』のベスト3は、邦画が①神々の深き欲望、②肉弾、③絞死刑、洋画は①俺たちに明日はない、②ロミオとジュリエット、③質屋で、もちろん全て見ている。

 「ロミオ〜」を除き、どれもアンチ・ヒーローが主人公なのが「今風」だと思った(個人的には、洋画5位のS・キューブリック『2001年宇宙の旅』が断トツと感じた)。

 アルバイトで小銭を稼ぎ、その金で本を買い映画を見て、大学の授業が討論集会や休講に変わっていなければ、授業にも出た。

 専門の数理経済学や簿記は退屈だったが、唯一刺激的なのは英会話の授業だった。

 講師はオランダ人のW氏、世界放浪の末に日本にやってきた当時まだ27歳の青年だ。

 W氏は、病気の後遺症とかで片手が不自由だったが、痩せて、眼光も舌鋒も鋭く、さかんに我々学生を挑発し議論を吹き掛けた。

 「何? 能や歌舞伎が日本の伝統美? そんなこと君と関係ないじゃないか。その伝統世界、1ミリでも君は参加や変更ができるか? 美しいかもしれないが、タコ壺みたいに孤立して、大多数の日本人と無縁だろう?」

 W氏は常に、日本の社会・組織・文化にいかに民主主義要素が少ないかを指摘した。

 早口の英語でまくし立て、自我意識の未熟さを攻めたてる。まるで、西欧合理主義を代表して日本に喧嘩を売っているように。

 三十数人の学生は、私以外はほぼ沈黙した。

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