足立倫行のプレミアムエッセイ

2018年5月26日

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 今年は、作家・鈴木三重吉が児童雑誌『赤い鳥』を1918(大正7)年7月に創刊してからちょうど100年になる。

 私は神奈川県在住なので、購読している新聞の神奈川版に、「童謡100年と白秋」なる連載記事が4月頃から載り始めた。

(molchanovdmitry/iStock)

 というのも、教化的・文語系の文部省唱歌に対抗して児童性を尊重した口語系の新しい童謡運動を唱えた三重吉に同調し、『赤い鳥』創刊号から童謡欄を担当、以後日本の童謡界の中核となる北原白秋は、その年から神奈川県小田原町(現、小田原市)に居住し、精力的に創作童謡を作り始めるからだ。

 最初期の童謡に『赤い鳥小鳥』がある。

 〈赤い鳥、小鳥、/なぜなぜ赤い。/赤い実を食べた。〉

 この作品に関し、後輩詩人が書いている。

 「赤い鳥がなぜ赤いか。それは大人の世界では自明のことである。しかし、幼児というものは、外界のあらゆる現象に奇異を覚え、“なぜ”の疑問を発するものである。白秋はそうした幼児特有の心理を幼児の言葉でとらえたのである。(中略)白秋以前にはこうした童謡はどこにもなかったのである」(与田準一『詩と童謡』)

 このように書くと、北原白秋が当初からいかにも純真無垢な詩人だったように思えるが、実際は異なる。小田原に移るまでの白秋は、煩悩に翻弄されて七転八倒していた。

 白秋は、24歳で発表したきらびやかな南蛮趣味の詩集『邪宗門』と、続く26歳の時の新官能的な第2詩集『思ひ出』で上田敏らの絶賛を浴び、若くして詩壇の寵児となった。

 併行して象徴的な短歌も評価されたが、詩壇・歌壇での名声の確立は、早稲田大学の同級生の若山牧水や、詩歌雑誌『明星』の仲間の石川啄木や吉井勇、木下杢太郎と比べても際立って早かった。

 ところが、早過ぎた頂点から転落するのもまた早かった。1912(明治45)年、27歳の夏、隣家の人妻・松下俊子と恋愛事件を起こし、その夫に姦通罪で告訴されたのだ。

 この件は、俊子に邪険だった夫が有名人の白秋に仕掛けた「罠」と言われるが、いずれにせよ白秋は2週間収監され、多額の示談金を支払うことになった。

 影響は深刻だった。世間の糾弾を受け、激しく悩んで死をも思い詰めた。詩風や歌風もガラリと変わり、享楽趣味が影を潜めた。

 翌年、俊子と結婚。九州・柳河(現、柳川市)の実家の破産もあり、上京した一家と共に神奈川県三崎町(現、三浦市)へ移住した。その後、白秋・俊子の2人のみ小笠原(父島)に渡ったりしながら、再び東京で一家と同居したが、両親と俊子とが仲違い……。

 〈垂乳根の母父ゆゑに身ひとつの 命とたのむ妻を我が離(さ)る〉

 29歳で俊子と離婚。そして31歳の時、平塚雷鳥の下にいた美貌の江口章子(あやこ)と再婚した。

 章子と暮らした府下南葛飾郡(現、江戸川区)時代は、白秋の極貧時代でもあった。

 〈米(こめ)櫃(びつ)に米のかすかに音するは 白玉のごとはかなかけり〉

 やむなく枯淡の境地に沈んだ白秋は、章子の病気療養のため、気候温暖な小田原に引っ越した。それが、『赤い鳥』創刊を4ヵ月ほど遡る1918年3月である。

 ただし、白秋が童謡史上に燦然と輝く『揺籃(ゆりかご)のうた』『砂山』『からたちの花』『ペチカ』『待ちぼうけ』『酸模(すかんぽ)の咲く頃』『アメフリ』『この道』などを生み出したのは、妻の章子が唐突に出奔してしまってから。新たに大分県出身の佐藤菊子と3度目の結婚をした21(大正10)年4月以降のことだ。

 創作童謡の成功で経済的に安定した白秋は、長男・長女を得て家庭生活も充実、怒濤のように創作活動を展開したのである。

 背景には、1910年代から20年代にかけての、後年「大正デモクラシー」と呼ばれる自由主義的な時代風潮があった。

 1912(明治45)年に美濃部達吉が天皇機関説を提唱し、25(大正14)年にはアジアで最初の普通選挙法が成立した。

 この年にはラジオ放送も始まる。第一次大戦による好況の余波に授かった庶民層の間に、欧米列強並みの消費文化に憧れる都市住民が生まれ、大衆社会を支えたのだ(ただし、31年の満州事変以後状況は一変するが)。

 晩年の白秋は糖尿病と腎臓病による眼疾のため、思い通りに活動ができなくなった。

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