明治の反知性主義が見た中国

2018年11月5日

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樋泉克夫 (ひずみ・かつお)

愛知県立大学名誉教授

中央大学法学部、香港中文大学新亜研究所、中央大学大学院博士後期課程を経て外務省専門調査員として在タイ日本国大使館勤務。著書に『華僑コネクション』『京劇と中国人』『華僑烈々―大中華圏を動かす覇者たち―』(以上、新潮社刊)など。

[著書]

高杉らを乗せた千歳丸による上海訪問から10年を経た明治5(1872)年、明治政府の外務卿・福島種臣は日清修好条規批准書交換のために清国に旅発つ。両国の国交が開かれたことにより、伊藤博文を筆頭とする政治家、外交官、軍人、学者、文人、経済人など多彩な明治人が大陸を訪れ様々な思いを綴っている。彼らの多くは“表玄関”から清国を訪れ、外交・経済・文化などを中心に“大上段”から清国を捉え、両国関係を論じた。

日清修好条規批准書交換は、じつは名も無き市井の人々にも大陸旅行の機会を与えたのである。それまで書物でしか知ることのなかった「中華」を、彼らは自ら皮膚感覚で捉え書き留めようと努めた。

かりに前者を清国理解における知性主義とでも表現するなら、後者は反知性主義と位置づけられるだろうか。これまで知性主義による清国理解は数多く論じられてきたが、反知性主義のそれにはあまり接したことがない。

歴史教科書で扱われることなどなかった明治人による反知性主義的清国理解を振り返ることは、あるいは知性主義の“欠陥”を考えるうえでの手助けになるのではないか。それというのも、明治初年から現在まで知性主義に拠って律せられてきた我が国の一連の取り組みが、我が国に必ずしも好結果をもたらさなかったと考えるからである。もちろん反知性主義だからといって、その結論が現在の我が国メディアで喧伝されがちな中国崩壊論に、あるいは無条件の中国礼讃論に行き着くわけでもないことは予め断わっておきたい。

(iStock / Getty Images Plus / andriano_cz)

※なお原典からの引用に当たっては、漢字、仮名遣いは原文のままに留め、変体仮名は通常の仮名(たとえば「ヿ」は「こと」)に、カタカナはひらがなに改めることを原則としておく。

「大陸浪人」の先駆け

 宮内猪三郎が清国に旅立ったのは、日清戦争勃発2年前の明治25(1892)年7月だった。

 出発を前に鹿島神宮の神前に額づき「稚櫻一株」を奉植しているが、長い間抱いていた「遊清之志」が叶ったことへの感謝と旅の成功を祈ってのことだろう。

 その足で向かった先が伊達宗城(明治維新元勲の1人。宇和島伊達家当主)、徳川篤敬(水戸徳川家12代当主。駐イタリア特命全権公使)、岡鹿門(仙台藩士で幕末から明治期を代表する漢学者。昌平黌出身の逸材で尊王攘夷論の急先鋒の1人)、栗本鋤雲(幕末の日仏関係の中核。明治政府からの出仕要請を拒否し新聞人に)、内藤耻叟(水戸学系歴史学者)、勝海舟などの著名人、さらには清国公使の李経方である。

 ここに挙げた人物が宮内と共通した清国政策を持っていたとは考えにくい。そのうえに宮内が全員と面識があったとは思えないから、出発挨拶を口実に押しかけて旅費の無心でもしたのではないか。はたして誰が居留守を使い、誰が門前払いを喰わせ、誰が快く(渋々ながら?)餞別を提供したのか。当時、どれほどの「遊清之志」の持ち主がこのような方法で金策に走ったのだろう。あるいは宮内は大陸浪人の先駆けだったようにも思える。

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