亡くなった人物の生き様や功績を書くことを評伝と呼ぶ。私がこれから書くのは、先日、47歳の若さですい臓がんのために亡くなった台湾文学の翻訳家・天野健太郎氏の評伝ということになるのだが、正直、編集部から執筆の打診を受けて書くことは了解したものの、この原稿を書くことに今なおためらいがある。なぜなら、天野氏は私にとっていささか身近すぎるところがあり、フェイスブックなどにコメントをつぶやく気にもなれず、訃報に接して今なお気持ちが整理できていないからだ。
同志であり、ライバルであり
天野氏とはお互い忙しいので年に何度か会うだけだったが、しばしば、話題は日本における台湾認識の問題になった。日本の台湾に関する情報は大きく二つに分けられる。観光中心の台湾と、過去の日本時代の記憶・記録をめぐる台湾。日本における台湾の情報には偏りがあり、是正していきたいという共通の問題意識があった。観光や歴史が悪いわけではないけれど、すでに一通りの情報発信は行き渡った感がある。もっと今の台湾の面白さを日本に伝えるにはどうしたらいいかをよく話し合った。
天野氏は私よりも3つ年下ではあったけれど、2人とも、戒厳令が解かれて民主化した後の台湾で中国語を学び、台湾社会に親しんだ世代として、1994年の司馬遼太郎『台湾紀行』が突破口を開いた日本の台湾理解に、天野氏は文学、私はジャーナリズムの立場から、新たな地平を切り開きたいという気持ちがあったように思う。
天野氏と私はほぼ同じ頃から台湾について本を書き始めた。天野氏の翻訳家としてのデビュー作は2012年に白水社から出された中国語圏の大ベストセラー・龍応台『台湾海峡一九四九』だった。それから、年に一作以上のペースで翻訳書を出し続けた。結局、天野氏の翻訳書はこの6年で12冊に達している。私は2011年に『ふたつの故宮博物院』を刊行し、天野氏には及ばないが1年に1冊のペースで本を出した。なんとなく、私が1冊出したら、天野氏も1冊出す、という感覚で、天野氏から本の書評を依頼されるケースもあり、逆に天野氏に協力を頼むこともあった。
私よりもずっと近い友人は天野氏にはたくさんいただろうが、日本の出版界で、一般の読者に向けて台湾を伝える本を継続的に出すという意味で、同志でもあり、ライバルでもあるという関係は、私だけだったように思う。