2024年12月22日(日)

日本人秘書が明かす李登輝元総統の知られざる素顔

2019年1月11日

この連載をまとめた書籍『総統とわたしー「アジアの哲人」李登輝の一番近くにいた日本人秘書の8年間』(早川友久 著・ウェッジ)が2020年10月20日に発売されます。

『武士道』に代表される日本人の精神性と最も対照的なのが、中国の『論語』だと李登輝さんは言います。唯一の日本人秘書である早川友久さんが、その意味を解説します。

2007年5月、日本を訪れ「奥の細道」を散策した李登輝元総統(写真:ロイター/アフロ)

 私が台湾を初めて訪れ、文字通り「ハマって」しまった頃に読んだ本に、漫画家の小林よしのりが描いた『台湾論』がある。2002年ごろのことだ。この漫画のなかに、もちろん李登輝も登場するのだが、そのなかで忘れられないセリフがある。

 李登輝はインタビューに訪れた小林にいう。

「あの当時の日本が、理想的な日本人を作ろうとして、作り上げたのがこの李登輝という人間なんだ」

 総統として台湾の民主化を成し遂げた人物が、臆面もなく断言することに衝撃を受けたのだ。

「公」と「私」の区別

 それから十年あまり、まさか自分がその人物のそばで働くことになるとは露ほども思わなかったが、近くで見る李登輝の精神はまさに日本人以上のものだと改めて感じるようになった。そばで見ていて、李登輝が最も厳しく考えているのは「公」と「私」の区別だ。象徴的なのが、李登輝が銀行に口座を持っていないことだ。

「自分はお金のやり取りに一切タッチしない」ということで、いつしか口座はすべて閉じてしまった。原稿料や講演料は、李登輝基金会の口座へ振り込まれる。退任総統としての恩給はすべてお孫さんに渡して、家の内外のやりくりに充ててもらう。台北市内にある自宅の名義もすべてお孫さんの名義だ。

 これほどまでに李登輝が神経を尖らせているのは、退任後に何度も根も葉もない噂やでっち上げ報道で名誉を汚されてきたからだ。たとえば、2000年の総統選挙では、李登輝は出馬せず、当時副総統だった連戦が国民党の総統候補となったが、この選挙で連戦は敗れ、民進党の陳水扁が当選した。台湾史上初の政権交代が実現したわけである。

 ただ、それは裏返せば、歴史的な経緯はさておき、とにかく戦後50年あまり台湾で政権を担ってきた国民党が初めて下野した瞬間だったともいえる。国民党の内部からみれば、独裁的なそれまでの既得権益を手放し、さらには政権まで手放すことになった最大の「戦犯」の汚名を李登輝に着せるのはむしろ当然の流れだったのかもしれない。

 国民党の主席も即座に辞任した李登輝と夫人を襲ったのはマスコミのデマ報道による攻撃だった。選挙が終わり、国民党の下野が決まって一週間もしないうちに、新聞に「李登輝夫人、8,000万米ドルを持って国外逃亡」と書かれたのである。54箱に詰めた米ドルを持って米国に逃亡した、などとまるで見てきたかのようなでっち上げ記事であった。

 もちろん、李登輝夫妻は選挙後もずっと台湾にいるわけで、たとえ現在のようにインターネットがない時代であっても容易にその嘘が判明する記事なのだが、「選挙に負けたから国外脱出」という思考経路が、未だ台湾に巣食う中国式思想を思わせる。

 中国では、古くから政権が交代すれば、前政権に携わっていた人間は容赦なく粛清されたり、財産を剥奪されるといった、前近代的な「易姓革命」という政治思想があった。つまり、完全なスクラップ・アンド・ビルドで、前政権は跡形もなく消去され、新しい政権を確立するという概念である。

 でっち上げニュースを作った人間の頭のなかに、こうした前近代的な「易姓革命」という中華的思想があるからこそ、「李登輝夫人が米ドルを抱えて国外逃亡」という記事になったのだろう。

夫婦であり、戦友であり

 こんなお粗末な記事であっても、名誉毀損の裁判では何年にもわたって闘わなければならなかった。李登輝もその頃のことを思い出し「私のことなら、根も葉もない噂だとほっとけばいい。だけど、家族が犠牲になるのは耐えられない。だから裁判で闘ったんだ」と話すことがある。 

 こうした一件もあり、李登輝は必要以上に金銭や財産といったものをなるべく自分の手で扱わないようにしてきたし、総統夫人も、滅多なことがない限り、三越やそごうといったデパートに出かけて買い物をすることはない。

「ちょっとデパートに買い物に行くだけで、あぁ李登輝夫人が買い物してるわ、と言われるのが嫌なのよ」と奥様がこぼすのを聞くと、私まで切ない気持ちになる。退任して20年近く経ってもなお、それほどまでに気を遣わなければならないほど辛い経験をされたのかと感じるのだ。

 でも、それに続く「だって、私が買い物することで、主人の名誉が傷ついたら困るもの」という言葉に、温かな気持ちを感じ、李登輝と奥様がともに夫婦であるとともに、戦友でもあったのではないかと思う一瞬である。

 こうした、公私を峻厳に区別し、名誉を重んじ、金銭に関わる汚名を雪ぐためなら闘うこともいとわない。これはまさに名を重んじ、金銭に執着することを下に見る日本精神なのではないだろうか。

 李登輝が、日本人的な精神を持ち、かつそれを重んじていることを窺わせる一端を挙げよう。李登輝には『武士道解題 ノーブレス・オブリージュとは』(小学館文庫)という著書がある。最初に日本で出版され、のちに中国語版がいわば逆輸入のかたちで、台湾で出版された。

 これは、李登輝自身が、新渡戸稲造の『武士道』を高く評価しているものの、現在の日本では「封建的な思想」として正しく理解されず、世界でも類を見ない素晴らしい日本精神を有しているというのに見向きもされない実情を憂いて書き上げたものだ。はっきり言って、日本人の私でも難解で、最後まで読み通すのさえ忍耐力を必要とするこの『武士道』 だ。ただ、それを平易な言葉に解釈し、特に若い日本人にその真意を伝えたい、という思いから、李登輝自ら執筆したものだ。

李登輝が考える「日本」と「中国」の違い

 そんな、武士道にも精通した李登輝がよく話してくれるエピソードがある。

 日本統治時代、李登輝の家庭は「国語家庭」であった。すなわち、日本語を家庭内でも常用する「模範家庭」というわけだ。

 とはいえ、台湾人である以上、日本語だけでなく台湾語も身に着けなければならないと両親は考えた。そこで、公学校(当時、台湾人の子弟が通った小学校のこと)中学年くらいになると、近所の廟で開かれていた寺子屋のようなところへ台湾語を習いに行かされた。その台湾語の教科書が『論語』だったというのだ。そして、日本人の精神性と最も対照的な例が中国の『論語』だと李登輝は言う。

 李登輝がいつも引用するのは「先進」第11之12だ。「未知生、焉知死(未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん)」。解釈には複数の説があるが、李登輝はごくシンプルに「まだ生について十分に理解していないのに、どうして死を理解できるだろうか」と解釈する。ここに日本人と中国人の精神の決定的な差があるという。

 日本人は「死」を大前提として、限りある生のなかで如何にして自分はこの生を意義のあるものにしていくか、はたまたどれだけ公のために尽くすことが出来るか、という「死」を重んじた精神性を有している。

 一方で、中国人の精神性は「まだ生について理解できていないのになぜ死を理解できるか」と正反対だ。そのため生を理解するために生を謳歌しよう、という発想が出てくる。「死」という限られたゴールがあるのであれば、それまでにめいっぱい生を堪能しようという考え方だ。

 こうした論語的な発想があるからこそ、中国では「いまが良ければそれでよい」「自分あるいは家族が良ければそれでよい」という自己中心的な価値観や拝金主義がはびこる原因になったのではないかと李登輝は考えている。「死」を前提とし、「いかにして公のために」という日本人的な発想とは根本的に異なるというのだ。

 李登輝に言わせれば『武士道』に描かれた精神、つまり「武士道とは死ぬことと見つけたり(葉隠)」という言葉こそ、日本人の精神性を最も表したものだという。日本人とくに武士にとっては「死」が日常生活と隣り合わせであり、常に死を意識しながらの生活であった。その「死」が念頭にある生活のなかで、いかにして人間は生の意義を最大限に発揮していくのか、それが日本人の精神性に大きく影響していると喝破する。

 言い換えれば「公」と「私」という概念といっても良いだろう。私から見れば、李登輝はまもなく96歳になる今でも、いかにして台湾のために尽くすか、日台関係のために何が出来るか、という「公」のことを毎日考えている政治家だといえる。

日本人は、本当の中国人というものを知らなくちゃならない

 戦後、台湾は日本の統治を離れ、中華民国(国民党)の占領統治の時代を長く経験してきた。この間、日本語が禁止されることはもちろん、言論の自由さえ奪われた台湾の人々は、息をひそめながら生きてきた。それと同時に、台湾社会からは日本統治下の名残が徐々に失われ、中国的な価値観を持つ社会へと変貌していったともいえる。

 日本のメディアから多く問われる質問として「日本はこれから中国とどのように対峙していくべきか」というものがあるが、李登輝が苦笑しながら必ずいうセリフがある。

「日本人は中国人を理解できやしないよ。いつも騙されてばかりだ(笑)。でも私は戦後、何十年も中国人の社会で生きてきた。だから彼らがどうすれば引っ込むか、どうすれば踏み込んでくるか、よく分かる。日本人は、本当の中国人というものを知らなくちゃならない」と。

 戦後になり、中国人社会のなかに身を置いた李登輝は、日本人と中国人の精神性の大きな差を感じたに違いない。しかし、日本統治時代に徹底した日本教育を叩き込まれた李登輝は、自ら「日本が作り上げようとした理想が私」と断言しながらその日本的な精神を守り続けてきた。

 だからこそ、前回も「李登輝が『台湾民主化は日本のおかげ』と語るワケ」で書いたように、国民党のなかでポストの階段を上がっていきながらも、権力闘争に巻き込まれることもなく、強い信念によって台湾の民主化を成し遂げた。もはや日本でもなかなか見ることの出来ない、これほどまでに日本的な精神を持った人物の言葉を、私たち日本人はもう一度学び直すべきではなかろうか。

連載:日本人秘書が明かす李登輝元総統の知られざる素顔

早川友久(李登輝 元台湾総統 秘書)
1977年栃木県足利市生まれで現在、台湾台北市在住。早稲田大学人間科学部卒業。大学卒業後は、金美齢事務所の秘書として活動。その後、台湾大学法律系(法学部)へ留学。台湾大学在学中に3度の李登輝訪日団スタッフを務めるなどして、メディア対応や撮影スタッフとして、李登輝チームの一員として活動。2012年より李登輝より指名を受け、李登輝総統事務所の秘書として働く。

  
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