使えない上司・使えない部下

2019年1月30日

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 今回は、印刷会社の木元省美堂の代表取締役社長・木元哲也さんを取材した。木元さんは、創業65年の木元省美堂の3代目社長。1988年に新卒でソニーに入社し、2014年9月末まで27年間勤務した。主に証券業務、商品企画、事業戦略などに関わった。同年10月から、父の後を継ぐ形で社長となり、約70人の社員とともに経営改革を次々と試みる。社内コミュニケーションの活性化や労働時間の削減をはじめとした就労環境の整備、さらに新卒採用をスタートした。

 木元さんにとって「使えない上司・使えない部下」とは…。

(josefkubes/Gettyimages)

歓迎されると思っていただけに、カルチャーショックでした

 ソニーにいたころは、仕事の内容やポジションなどにおおむね満足していました。上司や先輩、同僚、部下にも大変に恵まれ、感謝するものが多かったのです。振り返っても、私にとってはいい会社であったと思います。

 入社のときは、創業者である井深大さん(当時、取締役名誉会長)や盛田昭夫さん(当時、代表取締役会長)がお元気でした。当時は、全社が役員や管理職を役職ではなく、「さん」で呼んでいました。私は20代のころ、社長室にいたのですが、「盛田さん」と呼ばせていただいていました。いつも、メッセージがシンプルな方でした。

 ソニーの在籍中、社長をしていた父の後を継いでこの会社(木元省美堂)の経営に携わることはほとんど考えていなかったのです。30代や40代の頃に時々、思うことはありましたが、当時の上司などから、より大きな仕事を任せられたりすることで一時の迷いが消えていました。

 父は父親(木元さんの祖父)の後を継ぎ、2代目の社長として会社を成長させてきたのですが、70~80代になり、体が弱くなりました。私が50歳のころ、父は容体を悪くし、入院します。当時、ソニーは業績が悪化し、リストラをせざるを得ないようになっていました。私は部長職でしたが、いずれはほかの管理職の方と同じく、役職定年になっていくのだろうと感じていました。

 このころ、80歳をこえても働く父の姿をうらやましく思うようになったのです。これまでの経験を生かすことで、木元省美堂の経営に役立つことができるのでないかな、と考えるようにもなりました。

 2014年に父が社長を離れ、私がソニーを退職し、社長に就任しました。まずは、社内を把握するために約3カ月間、全社員ひとりずつと面談を1~2時間ほどしました。社員間や部署間などのコミュニケ―ションがよくなると、社員のモチベーションが上がり、チームワークがより機能するようになります。それにともない、業績も上がります。社内コミュニケーションの活性化は、すべてのベースにあるものと私は考えているのです。

 面談では、現在の仕事や人間関係、部署や会社の現状や課題などについて聞いたのですが、社員たちからは不満が多く、中にはほかの部署への批判もありました。後継者として多少は歓迎されると思っていただけに、カルチャーショックでした。私が、そのような社員たちを抑えつける? いいえ、そんなことはしません。当社のような小さな会社では、社員たちに強く言えば早いうちに辞めていくことがありうるのです。経営する立場からすると、辛いところですね。

 私は父のように経営者としての実績があるわけではなく、ベンチャー企業の社長のように会社を自ら立ち上げたのでもありません。印刷業界に長くいたわけでもないのです。退いた父が私の経営に介入することはありませんでした。それでも、すでに仕組みが出来上がった会社に入り、経営を担うことはやりづらい一面がありました。社員は誠実に仕事に取り組むタイプが多いのですが、私とともに汗を流してきた人たちではないですから…。父の側近ともいえる古参の社員がいたわけでもないのです。

 中小企業には、2代目や3代目の社長が多数いますね。その中には、20~30代で社長になった方がいます。私は、50歳で社長になりました。その意味でも、この4年間、苦闘してきたのかもしれません。

 ストレスが最も大きかったのは、社員が辞めてしまったときなどです。私が社長になる前々から、個々の社員に仕事のノウハウなどが蓄積され、それを全員で共有しようとする態勢にはなっていませんでした。ひとりが欠けると、少なくともその部署の業務がとどこおってしまいかねないのです。お客様の仕事のご要望などに迅速に、正確に応えることができなくなる場合があります。ソニーでは、その意味での共有は徹底されていましたから、このような問題はまず生じませんでした。

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