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2019年9月14日

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永井隆 ((ながい・たかし))

ジャーナリスト

1958年群馬県桐生市生まれ。明治大学卒業後、東京タイムズ記者を経て、1992年にジャーナリストとして独立。雑誌や新聞、ウェブで精力的に執筆する。著書に『移民解禁 受け入れ成功企業に学ぶ 外国人材活用の鉄則』『EVウォーズ』『アサヒビール30年目の逆襲』『サントリー対キリン』など。

 スズキはトヨタ自動車と資本提携する。1930年生まれの鈴木修スズキ会長が下した、場合によっては最後となる大きな決断だ。修流の「大に呑み込まれない」提携戦略を目指すが、これまで米GMとは長期的に良好な関係を築けた一方、独VWとはすぐに破局した過去がある。3度目の”嫁入り”となる今回は、果たして”吉”と出るのか、”凶”と出るのか。

トヨタ自動車と資本提携したスズキの鈴木修会長(右)は独自性を保てるのか(ロイター/アフロ)

 トヨタは960億円を出資しスズキ株の約5%をもち、一方のスズキも480億円を投じトヨタ株(0.2%程度)を取得。相互に株を持ち合っていく。すでに、2016年10月トヨタとスズキは「業務提携に向けた検討を開始する」ことを発表し、トヨタから豊田章男社長、鈴木修会長が出席しての会見を行っていた。

 業務提携から一歩進んだ資本提携により、スズキはトヨタと”縁戚関係”となった。CASE(接続、自動運転、共有、電動化)といった「100年に1度」と呼ばれる変革の波を、トヨタを中心にマツダやスバルなどと団結して、乗り越えていこうという腹づもりである。

 そしてもう一つ、どうしても気になるのは、軽自動車が将来どうなっていくのかだ。ダイハツ工業を完全子会社化しているとはいえ、トヨタは軽を生産してはいない。修会長の“目の黒いうち”はともかく、高齢化社会が急速に進行するなかで、軽の規格、税制はこのまま維持されていくかどうかはわからない。”地方の足”でもある軽の税率は、登録車との格差が縮小していく可能性を含む。ビールと低価格な第3のビールの税率が、来年から26年までに3段階で統一されるようにだ(ビールが下がり、第3が上がる)。つまりは簡素化されていく。

鈴木修会長が貫いた提携の中での「独立性」

 さて、スズキとトヨタは、浜松地方をともに創業の地とするだけではなく、歴史的に関係は深い。

 1970年代に国の自動車排ガス規制への技術対応に失敗したスズキは、76年にトヨタからダイハツ製4サイクルの軽自動車エンジンの供与を受けた。当時、日本自動車工業会会長だったトヨタ自動車工業(現在のトヨタ)の豊田英二社長は、スズキ専務だった鈴木修氏に「(会社が)潰れるんじゃ、仕方ない」と話したとされる。これ以来、修氏はトヨタというよりも、「豊田家」への「恩を忘れてはいない」(スズキ関係者)そうだ。また、修氏の岳父でありスズキ第二代社長だった鈴木俊三氏は、修氏に「何か(重大事が)あったら、豊田さんに頼みなさい」と言葉を遺している。そもそも1950年、大労働争議に見舞われた鈴木式織機(現在のスズキ)は、豊田自動織機製作所の石田退三社長(後にトヨタ自工社長)から融資を受け、仕事を回してもらい、役員を派遣してもらい立ち直っていった。

 修氏が、スズキの第4代社長に就任したのは1978年6月。48歳だった。排ガス規制の対応から厳しい経営環境に直面していて、第3代社長が病気で倒れたための緊急登板だった。まず、79年に発売した「アルト」をヒットさせて危機を脱し、81年には米GM(ゼネラルモーターズ)と資本提携する。82年インド政府と現地での合弁生産で合意し、83年には小型車を発売し軽専業から脱却する。

 現在のスズキにつながる重要な決断を、就任して最初の4年間に修氏は集中して下した。その後は、決断に基づく実行だった。

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