理由は、彼の恰好がおかしいことや勉強ができないことの他にあった。彼の家は貧乏な豆腐屋だった。同級の生徒は豊かなうちが多く、浦川の貧しさが仲間外れといたずらの対象になっていた。浦川が何をしても怒らないと考え始めた山口の仲間たちは、徐々にいたずらをエスカレートさせていく。
事件は秋のある日に起きた。
11月のクラス会が開かれることになって、出演者を選挙した際に、だれかが「電信」を回してきた。授業中にでも生徒が教師に気づかれないようにそっと送られていく通信のことで、そこには「アブラゲに演説させろ」と書かれていた。山口たちが書いたものだ。
そのうち、山口は文面を読み上げた後、「アブラゲって誰のことだい」と浦川に尋ねた。
山口の仲間はどっと笑った。
浦川の顔色が変わった。「自分の弁当!アブラゲとは自分のことなんだ」
「山口!卑怯だぞ。」
コぺル君の友だちの北見が山口の頬を平手で打った。それから、取っ組み合いが始まった。北見が山口を仰向けに押さえつけた時、浦川が北見に抱きついた。
「北見君、いいんだよ、そんなにしないでいいんだよ」と、山口を殴ろうとする北見を止めた。
その時に入ってきた、担任の教師は北見に誰が先に手を出したのか、尋ねた。北見は自分だと答えたが、その理由は話そうとしなかった。
担任の教師は、北見と山口とクラス委員の生徒の3人を残して後の生徒はグランドに出した。教師から山口は厳しく叱られていた。コぺル君は浦川のこんな明るい顔を見たのは初めてだった。
この話は、吉野源三郎著『君たちはどう生きるか』(岩波文庫)の2章「勇ましき友」に紹介されている話である。
2011年のいじめと1937年のいじめ、時代は変わっても共通のものがいくつかある。違いは、1937年にはいた、いじめられている子を守ろうとする「正義派」の子どもたちが2011年には見えないことだ。
「力のアンバランス」がいじめを生む
いじめの定義はいくつかあるが、「ある生徒が、繰り返し、長期にわたって、一人または複数の生徒による拒否的行動にさらされている場合、その生徒はいじめられている」というノルウェーのオルヴェウスの定義がよく使われている。 (文科省は「一定の人間関係のある者から、心理的・物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの」と少し緩やかな定義を使っている)
「拒否的行動」とは「ある生徒が、他の生徒に意図的に攻撃を加えたり、加えようとしたり、怪我をさせたり、不安を与えたりすること」とする。(森田洋司『いじめとは何か』中公新書)
2011年のいじめと1937年のいじめに共通するのは、「力のアンバランス」である。
つまり、自分より弱いものに対する反復・継続した攻撃・排除であって、しかも攻撃されたものが苦痛を感じるものでなければならない。
いじめとは、これほど卑劣なものだ。いつの時代にも、どこにでもある、と言うような言葉で済ませられるようなものではないのである。