オトナの教養 週末の一冊

2012年10月19日

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本多カツヒロ (ほんだ・かつひろ)

ライター

1977年横浜生まれ。2009年よりフリーランスライターとして活動。政治、経済から社会問題まで幅広くカバーし、主に研究者や学者などのインタビュー記事を執筆。現在、日刊サイゾーなどに執筆中。ブログ:http://golazo-sala.cocolog-nifty.com/pinga/

 しかし、そうするほど、その理念・理想と現実の距離は遠くなる。そして、現実を変えることからも遠ざかっていく。その事実に気付いた人間が、その理念や理想の暴走を批判した瞬間、「自らこそが革新的なことをしている」と自称する人間――それは現実の革新を妨害している張本人でもありますが――から「お前は反動的だ」「我々の理念に水を差すのか」と脊椎反射的な拒絶反応を受ける。国内外問わず、歴史を振り返れば、理念・理想、「正義」の暴走がそのような構図を繰り返してきたことがわかります。

――ありがちなパターンが再びつくられていると。そのパターンの中で、開沼さん自身も「正義を騙ろう」と思うことはないんですが。その方が楽な場面もあるでしょう。

開沼氏:「正義」の暴走を止められずとも、それに付き合っていこうとする存在は必要です。現実を真摯に、手足や頭を使いながら見ようとする「知識人」がいまの状況の中で出てきそうにないならば喜んでその仕事を独り占めさせて頂きたいと、大変尊大な話ですが、思います。

――『フクシマの正義』問われ続ける「正義とされているらしいもの」のあり方。これは、原発の議論に限らず、現在の日本のあらゆる問題に共通することだと書かれています。「下から目線」の必要性を踏まえた上で、「正義とされているらしいもの」が暴走する背景には何があるのでしょうか?

開沼氏:「自分自身でものを見、考え、自分の言葉で語っていこう」という欲望や仕組みが失われている。それは完全に個人の帰責されるべき問題ではなく、社会が個人に対して用意する環境によって進んでいる傾向だと思っています。

 例えば、先ほど述べたTwitterでのリツイートは象徴的な機能を果たしています。「こんな素晴らしい言葉がある」と、みんなリツイートする。でも本当にそれは「素晴しい言葉」なのか。必ずどんな言葉にもどんな事象にも、100%正しい、100%間違っているというものはないわけです。その「すばらしい」とされる言葉や事象の、一見、純白にも見えるその「白」の中にある「黒」、あるいは「グレー」の部分をいかに見ていくか。常に批判的なまなざしがなければ事実は見つけられない。

 でも、多くの人はそのような批判的なまなざしを失っていってしまう。それは、その方が楽で、気分がいいからです。白・黒はっきりさせ、「美しい白だ、素晴らしい」と悦に入り、正義・悪を区切り、「自分もまた正義の立場にたっているんだ」と確認する。はっきりさせ、分かりやすく切り分け、自らがことを理解し、その中でも優位な認識に至っているという感覚を得続けるのが一番楽です。2chの「ネット右翼」も、Twitterの「放射脳」もその点では同一線上にある。

 そこに居場所を求める者の感覚は、社会に存在する、想像や理屈を超えた「現実」の重層的・複雑な実態とは少なからぬ場合、乖離している。いわば「幻覚」がそこにあり、そこに浸っておけば「楽で、気分がいい」わけです。

 よどみのない、真っ白な言葉は人を酔わせる。しかし、その先では必ず「正義とされているらしいもの」が暴走し始める。それを避けるためには、その気持ち良さを壊していく契機をあえてつくっていくことが必要です。

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