佐藤忠男の映画人国記

2013年2月14日

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 石川県金沢は加賀百万石の文化的伝統で、きれいきれいな華やかな芸能の宝庫のような街である。だからかどうか金沢市出身の芸能人は少なくない。ただし街自体がそうであるような、おっとりとして優美なタイプが多いかというと必ずしもそうではなく、これが逆に、むしろ反逆的な尖った感じの個性派が目立つ。伝統への反逆だろうか。

 いちばんその傾向がはっきりしているのが麿赤兒(まろあかじ)である。1963年に早稲田大学に入るが、中退して新劇の劇団に入る。そして暗黒舞踏の土方巽から舞踏を学び、1965年に唐十郎の劇団「状況劇場」に入って、60年代末の演劇界で評判になったいわゆるアンダーグラウンド劇、略してアングラ芝居の一方の花形的な存在になる。それこそ金沢などで保持されてきた日本舞踊の逆を行く、むしろ見る者をびっくりさせる奇っ怪な身のこなしのダンスであり、それを基礎にしてつくりあげた、グロテスクとも言える豪快な演技である。唐十郎の芝居全体がそういうものであるが、その傾向を代表したのが麿赤兒の演技だった。あんなものが演劇かと軽視する人々もいたが、これが他のいくつかの劇団とともに既成の生まじめな新劇の流れを変えた力は大きい。映画でも怪物的な役割でいろんな作品に出ている。しかしこの流れも一時の人気絶頂期を過ぎるとあまり長くは続かず、麿赤兒自身も1993年の「月はどっちに出ている」で、容貌魁偉ながらも人格はまことに温厚という役を演じてからはもっぱらそんな役で、安心して親しめる名脇役になって今日に至っている。

 おなじ時期、おなじように新劇からアンダーグラウンド的な芝居に行き、独特の個性で注目されて、その演技のあり方を記録した映画まで作られた女優に吉田日出子がいる。新劇の俳優座養成所から文学座研究生になり、新劇の演技術を身につけたのだが、そのセリフの喋りかたや身のこなしに新劇系の折目正しさを超えた自由さがあって一部の人に注目され、それが岩佐寿弥監督のドキュメンタリー「ねじ式映画・わたしは女優?」(1969年)にまとめられた。いまから思うと、その独特さはのちに新劇系の何人かの女優に受け継がれて発展している。吉田日出子自身もアングラ劇版の「上海バンスキング」の主演などで活躍し、映画でも1989年の舛田利雄監督の「社葬」で報知映画賞の助演女優賞を得るなど、いい仕事をしている。

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