羽交い締めにされ取り押さえられた若い男は、変装用のかつらをかぶっていた。リュックサックに隠し持っていたのは大量の500ユーロ紙幣と年100万ドルの報酬を協力者にちらつかせる勧誘ビラ。ロシアの情報機関、連邦保安庁(FSB)は、若い男がアメリカ中央情報局(CIA)のエージェントだといった。スパイ作戦の失敗か? それとも、巧妙に仕組まれた罠なのか? 冷戦時代を彷彿させる米露の諜報戦が5月のモスクワで繰り広げられた。
FSBは14日、モスクワ南西部で在露アメリカ大使館の外交官を現行犯で拘束したと発表した。外交官には、ロシアのベテラン捜査官を協力者にするべくリクルートを試みた嫌疑がかかっている。FSBは映像と写真をまじえ、拘束直後から取り調べまでの一部始終を大々的に発表した。米露のメディアはトップニュース扱いで事件を伝えたが、派手な拘束劇の裏に、いくつかの不可解な点が浮上している。
「あなたは年間100万ドルを稼ぐことができるんだ」
モスクワエスピオナージ(スパイ)の情報公開は全て、FSBの主導で行われた。
アメリカ大使館の外交官とは、3等書記官のライアン・クリストファー・フォグルだった。拘束時に、ロシア駐在の外交官なら誰でも持つ露外務省発行のIDカードを所有しており、カード自体も公表された。FSBは、フォグルは外交官の肩書きは隠れみので、CIAの諜報部員とみているとも話した。
アメリカ政府はまだフォグルの身元を正式に認めていないが、ロシア国営通信(RIA)は、アメリカでの取材を元に、フォグルはミズーリ州出身の29歳と報道、2006年に、ニューヨーク州ハミルトンのコルゲイト大学を卒業し、その前年の2005年にはワシントンD.Cのシンクタンク戦略国際問題研究所(CSIS)で、中東問題研究のインターンとして従事していた事実を、当時の級友たちから話を聞き、裏を取っている。CSISの当時のルームメートは、「彼は並外れた才能の持ち主だ」とコメントしており、記事には「物静かで勉強熱心」との級友の印象も紹介されている。
13日深夜、フォグルはモスクワ南西部の閑静な住宅街にいた。イスラム過激派が跋扈するロシアの北カフカス地方で何度もテロ作戦に参加した事のあるベテラン捜査官に電話をかけた。その内容はFSBに盗聴されていた。
テープは編集され、その断片が公開されている。
「思うに、今日、(私たちは)会うべきだ。明日なんてありえない。とにかく今日だ」
フォグルの流ちょうなロシア語は、畳みかけるように「今すぐ会おう」と相手を急かす。もしかしたら、相手が逡巡したところをつけ込んだのかもしれない。「今日」を強調するあたりに、彼の心の内が浮き彫りになる。