ちょうど100年前─。1923(大正12)年9月1日午前11時58分、関東大震災の激しい揺れが帝都を襲った。東京市内では約7万人が命を落とし、市域の43.6%が焦土と化した。しかし、この未曽有の災害時に内閣は不在であった。
8月24日に加藤友三郎首相が病気で亡くなり、28日に山本権兵衛に組閣の大命が下ったが、最大勢力の政友会や有力政治家の協力が得られぬまま難航していた。そんな中、初代鉄道院総裁や東京市長も務めた後藤新平が動いた。9月2日早朝、後藤は山本を訪ね、固辞していた入閣を受諾。まだ余震や大火が収まらぬその夜に、赤坂離宮の芝生の上で親任式が行われ、後藤は復興を所管する内務大臣に就任した。
後藤は矢継ぎ早に対策を打ち出した。9月9日には事業費41億円の復興案を発表。27日には内閣の中に帝都復興院を立ち上げ、後藤は大臣にあたる総裁に就任した。復興院の幹部には、鉄道院総裁時代の腹心の部下で戦後に国鉄総裁として新幹線建設を推進し、「東海道新幹線の生みの親」と呼ばれた十河信二を経理局長に、復興の要となる土木局長には同じく鉄道院時代の部下であった太田圓三が就任した。
その他にも建築局長に佐野利器、副総裁に次ぐ技監には直木倫太郎ら後藤が主宰する「都市研究会」のメンバーを充てた。復興は、都市の健全な発展を図るために制定された都市計画法のもと、住民が減歩で土地を負担し合い道路などの公共施設に当てる土地区画整理により施行された。だが、同法の制定は関東大震災前の19年と日が浅く、国内に理解者や経験者はほとんどいない中、唯一無二の人選だった。これも、戦前では珍しい理系出身の政治家であった後藤の人的ネットワークがなせる業だったといえよう。
しかしこの復興案は、国家予算の約3カ年分とあまりに高額だったことや、地方に基盤を置く政友会の反対などから、最終的な事業費は10分の1に、エリアは現在の23区に近い区域から震災での焼失区域のみに縮小された。さらに12月27日には、皇太子裕仁親王が狙撃される暗殺未遂事件(虎ノ門事件)が発生。これを受けて内閣は総辞職し、後藤も辞した。年が明けた24年2月25日には、復興院は廃止され、内務省の一部局の復興局へと格下げされた。
後藤が復興事業に直接携わったのはわずか3カ月であった。復興のレガシーである区画整理による整然とした街並みや隅田川の美しい橋は、この後、後藤の意思を継いだ、復興局の直木倫太郎長官や太田圓三土木部長らの土木技術者によってつくられるのである。