2024年5月16日(木)

チャイナ・ウォッチャーの視点

2023年11月9日

 その後李氏は遼寧省トップとして赴任し、満洲国時代からの工業基盤の老朽化で没落が進んでいた東北地方の立て直しのために奔走したが、その当時に語った、中国経済の判断基準としての「李克強指数(発電量・鉄道輸送量・銀行融資残高)」は、李氏の実務家精神を最もよく物語るものであろう。

 そして最近では、疫病で急速に厳しさが増す中国経済をめぐる、「六億人が平均月収1000元で生活している」という、まるで習近平氏の「脱貧」宣言を否定するかのような発言といい、経済刺激・就業拡大のため屋台(地攤)経営に寛容な姿勢を示したことといい(巨大建築が並ぶさまを喜ぶ習近平の趣味とは真っ向から反するため不調に終わった)、李氏の一つ一つの政策や発言を後から検討してみれば、確かに習近平氏と比べれば遥かに「実事求是」の精神が強く、「親民」的な雰囲気を感じる。

「究極の聖人君子」と意識されるように

 そんな李克強氏は晩年、「長江も黄河も逆流しない」と語った。改革開放初期の「自由」を記憶する世代は、改革開放精神の持続を説くその発言の奥に『河殤』のメッセージを感じ、李克強氏こそ習近平流の統制強化に強く反対し、中国にもより自由で民主的な普遍的価値が必要であると説く人物であるのではないかと感じたことであろう。実際、少なくない献花には、独裁・専制に反対する精神の象徴として、この発言に言及する弔文が添えられた。

 そして極め付けの、中国人の心に響いた李氏の言葉は、今年3月に国務院幹部を前に語った首相離任挨拶である。

 「人が何をしているかを天は見ている。国務院の皆さんは艱難辛苦を極めながらも、本当に着実に頑張った。そんな皆さんに、天は褒美を与えるべきだ。ほら、この風をご覧なさい。さっそく(我々は天から)風を呼んだよ。(一同笑い)」

 中国伝統の天人相関論に即して言えば、天に認められるような善政に努める統治者には引き続き天命が下され続ける。しかし、そうではない酷政は下からの反逆を招き、ついに天命は統治者から失われて別の新たな支配が実現する。

 李克強氏自身は単に、年々多難な習近平新時代にあって、辛うじて奮起し続けた官僚を天人相関論になぞらえて褒め称え、感謝の意を伝えようとしただけだったのかも知れない。

 しかし習近平新時代の過酷なロックダウン、とりわけ昨年の秋から冬にかけての異常な雰囲気をくぐり抜けて来た人々は、天人相関説に基づいて「失政により天命を失うべき人物」を脳裏に思い浮かべ、同時に、北京の立体交差「四通橋」に「ロックダウンは要らない。自由をよこせ」等の趣旨を掲げて行方不明となった彭載舟氏や、短期間高揚したのみで潰えた「白紙運動」など、数々の失敗した「反逆」=苛政への抵抗のことを思い浮かべたのかも知れない。そして、それにもかかわらず「天下の大いなる公」はいずれ必ず実現し、中国が自由・公正で豊かな国に生まれ変わるという夢を、李克強氏の発言に仮託したのであろう。

 こうして李克強氏は、彼自身が意識したかどうか、あるいは彼自身の業績とは全く別のレベルで、息詰まる雰囲気が蔓延する習近平新時代の新たな「聖人」として意識されることになった。ネット上で沸騰し、人々の実際の行動によっても示された、深い弔意や喪失感と表裏一体の、「これからも続く習近平新時代」に対する深い絶望感、そしてそれもいつか必ず終わることへの期待感は、このような文脈で初めて理解できるのではないか。


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