4つの関係性のうち、「今の3対1」から、「本来のあるべき3対1」にすべきというのが私の持論である。
90年代以降、政治主導となり、官僚が政治家を見て仕事をするようになったと言われているが、私からすれば、その様相は少し異なる。
今の日本は「官僚」が一番上にいて、その下に「政治家」、さらにその下に「国民」がいるという構造になっている。昨今の政治家は勉強不足が著しいから、いつまでも官僚に〝お膳立てされた〟政策を進めるしかなく、しかも、国民が納得できる説明もなく、負担増ばかりを強いている。
権力を監視し、時には異を唱え、国民を助けてくれるはずの「マスコミ」も一番上にいる官僚の横に位置している。日々の報道で、政治には一応の注文をつけるが、「国民負担やむなし」といったキャンペーンを張っている。これが「今の3対1」である。
だが、本来は、一番上に「国民」が位置し、その国民に選ばれた「政治家」が「官僚」を動かして共同作業を行い、国民のために政策を推進していくことが欠かせない。そして、「マスコミ」は一番上の国民の横に位置し、国民の声に寄り添う形で、権力を監視し、叱咤激励していく。これが「本来のあるべき3対1」の関係性である。
国家を見るか、
それとも国民をみるか
私には、今の政治、特に国政について言いたいことが山ほどある。
マックス・ウェーバーの言葉を借りれば、政治家に必要な要素は「情熱」「判断力」「責任」の3つだ。
「情熱」とは、国民への強い愛情や国民を救いたい、助けたいという気持ちのこと。「判断力」とはその時代に即した合理的な判断ができる力、つまり「方針転換」を決断する力のことだ。そして最後の「責任」とは、結果に対して〝腹をくくる〟ことである。
今、この3つを実行している政治家を、読者の皆様は思い浮かべることができるだろうか。私にはできない。
政治家の中には、総理大臣になりたいと公言する人がいる。思うことは自由だが、大事なことは、総理大臣になって何をするのかということだろう。
亡くなった安倍晋三元首相にはそれが確かにあった。ただ、安倍さんの場合、それは日本という「国家」のあり方をどうするのかということだった。
対照的だったのが、「脱官僚、政治主導」「国民の生活が第一」などをスローガンに掲げた当時の民主党政権である。彼らは「国民」目線の政治をすると期待されていた。しかし結局は、ほとんど何も実現できずに、税と社会保障の一体改革によって国民の負担は増え、失望を招いた。
国家を見るか、国民を見るか、その両方を見るか─。政治家なら本来、両方見て然るべきだが、今は、片方どころか、どちらも見ていない人が多すぎる。本当に深刻な状況である。(つづく)