就職したのは出光興産。ここで再び英語と出会うことになる。入社1年目で留学するチャンスが巡ってきた。ただし、留学するにはTOEFLが550点(理系)必要になる。「基本的な文法を忘れているほど」だったが、553点を取りなんとかクリアした。留学先のオハイオ州立大学では、12単位履修すれば良いところを、聞き間違いで20単位履修してしまい、「夜2時まで勉強して朝6時からまた勉強」した。結果的には、ここでの勉強が翻訳家としての礎となった。
妻と自分、仕事を辞めて
どちらがより潰しが利くか?
帰国後、大学時代の後輩と結婚し、仕事ではNEDO(新エネルギー・産業技術総合開発機構)に出向して、APEC(アジア太平洋経済協力会議)でワーキンググループの事務を取りまとめるなど、多忙な日々を送った。NEDOから戻ったあとも、石炭の輸入担当として忙しく働いていた。そして1998年、最大の転機が訪れる。妻の出産だ。公務員である妻も仕事が多忙で、今の仕事を続けていたのでは、お互いに保育園へのお迎えなどできない。そうすると、必然的にどちらかが仕事を辞めなければならない。「どちらがより潰しが利くかと考えてみると、僕のほうだという結論に至ったんです」。
NEDO時代、外注した論文の翻訳があまりにひどく、「これなら自分でやったほうがマシですよ」とクレームをつけたところ、翻訳会社の営業マンから「では、ご自分でやってみせんか?」と逆に誘われたこともあり、翻訳者に転進しようと考えたのだ。
翻訳会社数社にアプローチし、しばらく翻訳の副業生活をしてみた。通勤電車を始発駅で乗り換えて座席を確保したり、昼休みの時間をつかったりして産業レポートなどを中心に翻訳の仕事をした。その結果、「自分の外部価値を見極めることができた」という。井口さんが会社を退職するという提案に当初は戸惑っていた妻も、最後は納得してくれた。副業でも年間250万円以上が稼げることから、専業になれば住宅ローンも滞りなく返済できるものと思われたからだ。
こうして決心したことではあったが、退職の意志を上司に伝えるときは「膝ががくがく震えた」という。会社はとてもびっくりしたらしい。「どうして嫁が辞めないんだ?」「本当は他に理由があるんじゃないのか?」という答えが返ってきた。「当時は男性が育休をとる割合は0.01%という時代ですから、無理もなかったと思います」。一方で、高度経済成長が終わり、働き方や生き方が変わるのはある意味当然で「夫のほうがキャリアパスを変えることがあってもいいはず」だと考えていた。