経済の常識 VS 政策の非常識

2015年3月31日

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 資本主義はその自己増殖的な欲望によって社会を破壊し、その破壊を避けるために戦争にまで突き進みかねないものだと批判されている。レーニンの『帝国主義論』では、自由主義競争の資本主義の中から独占が生まれ、この独占が金融資本にも波及して、独占金融資本が生まれる。この独占金融資本が世界の隅々まで支配することになり、分割する市場がなくなった時点で、再分割をめぐる闘争が起きる。よって、再分割をめぐる帝国主義戦争は不可避である。世界大戦はこうして起こるというのである。

暴力による殺人は減少してきた

 しかし、戦争なら大昔からあった。資本主義以前の戦争とはどんなものだったのだろうか。コーランには、「戦利品は神と使徒のもの」「わし(神)はおまえたちとともにある。わしは不信の徒の心に恐怖を投げ込んでやる。おまえたちは彼らの首を打て。また、彼らの指先まで、一本一本打ちのめしてやれ」「天使たちが不信の徒を呼び寄せて、その顔と背を殴打するところを汝に見せたいものである。火あぶりの懲罰を味わえ」「地上で殺戮をほしいままにしたあとでなければ、捕虜を蓄えることなど、預言者にふさわしいことではない」とある(藤本勝次責任編集『世界の名著15 コーラン』190~197頁、中央公論社、1970年)。ここで最後の文の意味は、信仰の敵を滅ぼすのが第一で、捕虜にして身代金を取ることだけを考えるのは預言者のすることではない、との意味である(コーラン、71頁注1)。

 別にコーランだけのことではない。旧約聖書には、これ以上の残虐な話がいくらでも書いてある。モーセが、エジプトで奴隷にされていたイスラエルの民を約束の地に戻すために、エジプト人を殺すのは理由があるとしても、その後の事跡は理由のない残虐さに満ちている。儀式と部族の系譜の説明を除けば、旧約聖書は、ほとんどが理由のない殺人の記録と言っても良いのではないか。

過激派組織ISILからのティクリート奪還作戦を始めたイラク軍を支援するシーア派民兵たち Thaier Al-Sudani / REUTERS / AFLO


エジプトから脱出したイスラエルの民が、モーセがシナイ山に登り十戒を授けられるのを待つ間に金の子牛の像を拝んだ偶像崇拝の罪として、3000人のイスラエル人を殺す。他にも、神を疑ったもの、モーセに反逆したものを、数度にわたって何万人ずつも殺している。大粛清である。モーセは、約束の地カナンに到達するまでに、様々な人々を皆殺しにするように命じる。「イスラエル人は、主に命じられた通りに、ミデヤン人と戦って、その男子をすべて殺した。……モーセは、(女たちを生かしておいたと聞いて怒り)今、子どものうち男の子を皆殺せ。男と寝て、男を知っている女もみな殺せ。男と寝ること知らない若い娘たちはみな、あなたがたのために生かしておけ」とある。

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