2024年4月20日(土)

チャイナ・ウォッチャーの視点

2009年10月15日

中国の人々は祝祭をどう見たのか

 では、当の中国の人々は、そのような中国共産党が企図した幻惑の一大祝祭をどのように見ているのか。もちろん、「アヘン戦争以来帝国主義列強に度々蹂躙された」という歴史認識を強く抱く多くの人々にとって、中国がいつの間にか世界経済の今後を左右しうる存在として台頭したことは喜ばしいはずである。そこで、共産党の説く通りに手放しで祝い酔おうという発想もあることだろう。しかし、中国社会は思想面でもかつてなく多様化している。国際社会における中国の地位向上を喜びつつも、まさに中国人自身が中国の抱える矛盾を解決できないでいるために、国際社会から厳しい視線を向けられている事実を冷静に捉える向きも勿論ある。共産党がいつしか、近未来の統制社会を描いたジョージ=オーウェルの小説『一九八四年』にちなんで「大哥(Big Brother)」という隠語で呼ばれ、人々から暗に嫌悪されるようになって久しい。

 このことは、肝心の建国60周年祝賀行事報道からもほのかに伺える。共産党機関紙『人民日報』の直営サイト『人民網』が大政翼賛的色彩に充ちていたことはある意味で必然であるとは言え、日々熾烈な競争に晒されている他のメディアは、共産党の指導により最低限の慶祝画面と特集記事を整える程度で淡々と(しかし見かけ上は熱いふりをしつつ)事実報道に徹しているように見えたのは筆者だけであろうか。北京で発行され、公正な取材で定評がある『新京報』のサイト『新京報網』を閲覧した際、天安門広場で開催された夜の祝賀コンサートについて「自由で多様な雰囲気に満ちていた」と強調していたあたりが特に印象に残った。

 そういえば、去る8月末の日本の総選挙結果について、中国の各種メディアが異常に強い関心を示していたのも印象的な出来事であった。毛沢東が荒涼とした黄土高原の田舎町・延安を拠点にゲリラ戦を展開していた頃から現在まで、あらゆるメディアは共産党の喉舌であるべきとされている中国において、本来日本はもとより台湾・韓国・米国など諸外国の選挙結果を報道するという行為は極めて敏感な問題をはらむ。何故なら、一人一人の投票行動がついに国政全体を大きく動かすという事態は、「共産党の正しい指導を人民が支持する」という建前に基づく翼賛選挙しか認められていない中国の現体制(但し村民委員会など基層レベルでは競争的選挙も試みられている)にとって不都合この上ないからである。したがって、これまでの報道ではしばしば、意図的に選挙結果をごく僅かしか扱わない、あるいは「好戦的で歴史を直視しない反動集団(台湾の場合「分裂主義集団」)によって選挙が歪められ、平和愛好的(祖国統一を願う)人民の総意が踏みにじられた」という「断り書き」が入れられることが少なくなかった。しかし、この点でも中国は既に昔日の中国ではない。重要な隣国・日本で起こった一大事件に関する報道を最早共産党自身も止められないという事情に乗じて、平和で競争的な選挙による政権交代とはどういうことかという問題意識を前面に押し出していたのは注目すべきであろう。

東アジア共同体で日本外交は埋没する

 鳩山新政権が発足し、「東アジア共同体」が喧伝されている。しかし、それが経済的利益を念頭に置き、交流が拡大しさえすれば予定調和的に「共同性」が拡大すると見ているのは余りにも浅薄に過ぎる。欧州と比べた際、ナショナリズム・国益・社会的文化的現実など、どれをとっても「共同性」の構築とは余りにもほど遠いのが「東アジア」という地域の現状である。そのことに目をつぶり、「平和」と「友愛」の美名の下で「中国の問題は批判しない」という態度で済まそうとするのであれば、それこそ帝国主義列強がひしめく19世紀的世界観の中を生きる中国共産党・ナショナリズムの思うつぼであり、日本外交の埋没をただちに意味する。中国を敵視するのではなく、建国60周年の祝典から改めて浮かび上がった中国の諸問題を、長期的かつ穏健に解決して行くことは、「東アジア」の共存にとって欠かせない。このような発想の下、互いの問題に対して建設的な批判を許し合うような外交関係を構築することこそ、「共同性」づくりの第一歩であるといえまいか。

 

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