ヤクルトスワローズ→タンパベイ・デビルレイズ→ピッツバーグ・パイレーツ→オークランド・ アスレチックス→東北楽天ゴールデンイーグルス→東京ヤクルトスワローズ →福島ホープス
1979年2月愛媛県宇和島市生まれ。宇和島東高校時代には甲子園に出場していないにもかかわらず、高校日本代表に選ばれ、4番を打った。96年ドラフト2位でヤクルトスワローズに入団。2004年には44本塁打を放つなど、強打者として活躍する一方、守備の名手に与えられるゴールデングラブ賞も6度受賞している。
現在は山田哲人選手が付けている「ミスタースワローズ」の代名詞、背番号1を背負っていた。メジャーリーグ移籍後もレギュラーとして活躍し、ワールドシリーズにも出場。06年、09年のWBCでも活躍し、日本の連覇に貢献した。15年からは独立リーグの福島ホープスで選手兼任監督を務める。昨年は5割を超す打率を記録した。
(写真・NAONORI KOHIRA)
「初回先頭打者敬遠」。数々の「岩村明憲伝説」の中で、最も有名なものの一つである。高校時代からどれほどの注目を集めてきたか、どれほど規格外の選手だったかが分かるエピソードとして、これほど秀逸なものはない。
「高校3年生の夏の大会。上甲監督から、『大会の本塁打記録を狙え』と言われて指名されたのが1番バッターで、その最初の打席が敬遠だった」
ニヤリと笑いながら話す岩村であるが、その目は鋭い。現役選手としてグラウンドに立ち続ける勝負師だからこそ出せる、鋭さである。
「気づいたらユニフォームを着ていた」
物心がつく前から、野球は体の一部だったのだろう。父と3つ上の兄の影響でソフトボールを始めた。体は大きくなかったが、ボールを遠くに飛ばすことだけは昔から自信があった。
「母親が経営する美容室の駐車場で、毎日2時間以上壁当てしてさ。夜は、消防士の父親が夜勤で家にいないときは、野球経験の全くない母親に練習に付き合ってもらっていた」
岩村少年のボールを受け続けたこの壁は、最終的には耐えきれず、壊れることとなった。誰からやらされるわけでもなく、自らの意志で練習をし続けた。その原動力は、「プロ野球選手になる」という一心。
「〝なりたい〟ではなく、〝なる〟と決めて野球を始めた」
その意志は、自身が破壊した壁とは違い、このころから無類の固さを誇っている。
後に進学した宇和島東高校では、3年生の春、甲子園未出場ながら日本代表に選ばれ、4番バッターとしてアジア選手権に出場。フィリピンで行われた試合で場外ホームランを放った。その球場では野球の神様ベーブルース以来の出来事であったことから、石碑にはベーブルースとともに岩村の名前が刻まれた。
「ベーブルースの下に名前が刻まれたことで、『いつかはアメリカで』という気持ちが芽生えた」