2024年4月20日(土)

それは“戦力外通告”を告げる電話だった

2016年10月7日

 1年目は110試合に出場するなど、レギュラー級の活躍を見せる。

 「松坂さんともう一度対戦したい。ただそれだけだった」。月給約16万円で、毎日ピザとハンバーガーを食べ、長距離のバス移動も日常となった。

 2年目。田中に初めての感情が生まれる。

 「違う自分をね、プレーする以外の自分を見始めた」

 言葉の通じない中、一人で戦う孤独は、行ったものにしか分からない。次第に、ここでプレーし続けることの意味を見出せなくなっていった。08年のプロ野球のトライアウト会場は横須賀。慣れ親しんだ横浜ベイスターズの2軍施設である。

 「ここで終わりにしよう」

 自身最後のトライアウトに参加し、田中は現役生活に幕を下ろした。

 「野球の〝野〟という字が現役時代なら、〝球〟という字は恩返し。2つ揃って初めて〝野球〟なんだ。得てきたものを、野球界に還元しなさい」

 この先を案じていた田中に、桑田が語りかけた。現役を引退後、主にベースボールスクールのコーチとして活動。学生野球資格も回復し、14年からは拓大紅陵高校でコーチを務めた。現在は、日本経済大学の1年生として講義を受けながら、同大学の野球部のコーチを務める。

 「試行錯誤しながら、指導者という仕事を日々勉強しているよ」

 真っ黒に日焼けした肌に、ニッコリと笑う顔は、野球少年そのものである。

 「俺は、きれいごとを言わない。やっぱり勝たないと意味がない。甲子園は本当に素晴らしい場所だった。高校野球なら、何が何でも甲子園に連れて行きたいし、『勝つ』ことを目指すからこそ生まれることがある」

 勝ちながら人を育てる。田中は、指導者としての哲学と、生きがいを見出しつつある。

 「学ぶことをやめたら、そこで終わるよね」

 もう二度と、野球を失わない。失ってから得た、教訓。田中は今日も、グラウンドに立っている。(敬称略)


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