2024年4月17日(水)

万葉から吹く風

2010年9月17日

 万葉集巻二の冒頭に、磐姫皇后〔いわのひめのおおきさき〕*が天皇を思って作ったという四首が置かれている。いずれも、恋しい人を待つ思いにあふれた切ない歌だ。なかでも三首目の歌に、私は惹かれる。

ありつつも君をば待たむ
うちなびく我が黒髪に霜の置くまでに
                                       
(巻2-87)

 ここには「待つ」ということへの強い決意がある。

 「ありつつも」は、ひたすら待ちつづけるという今の状態を、これからも続けていこうという覚悟。待たむの「む」は意志を表す。そして女の魅力を表す黒髪が、白髪となってしまうまでもという期限は、期限であって期限でない。つまり死ぬまで待つことをやめないという宣言だ。

 この強さは、何だろう。とことん待つことをした人だけが到達する、透明な境地。待つという時間に、生き甲斐すら見つけてしまった人の、澄んだ心境。そういったものが伝わってくる。

photo:井上博道

 はじめのうちは、疑ったり、悩んだり、心配したりと、心がめまぐるしく動き、泥水のように濁った状態だったかもしれない。が、嵐の後で川の水が落ち着くように、だんだんと砂粒や石ころは沈殿してゆき、濁りのない水のような時間が訪れる。そういう、激しさのあとの穏やかさが、この一首には流れている。

 以前、私自身も、こんな歌を作ったことがある。

誰を待つ何を吾は待つ
〈待つ〉という言葉すっくと自動詞になる
                                    
(『サラダ記念日』)


 「待つ」という動詞は、他動詞なので、文法的には「〜を待つ」というように、目的語がなくてはならない。が、いつのまにか「待つ」ということそのものが、それだけで成り立っているような、そんな気持ちになっていた。誰を待つとか、何を待つとか、そういうことではなく、もう、この「待つ」という時間を積極的な自動詞として私は生きよう、という心境である。

 磐姫皇后もまた、同じような思いを抱いていたのではないだろうか。「ありつつも」の歌の前には「迎へか行かむ待ちにか待たむ(迎えに行くべきか、待つべきか)」と深く悩む歌や、「高山の岩根しまきて死なましものを(もういっそ死んでしまおうか、そのほうがまし)」というような激しい歌が置かれている。  そういうさまざまな葛藤を乗り越えたうえでの「待つ」なのだ。とことん待った人だけが住むことのできる「待つ」の国に、この人は住んでいる。

*仁徳天皇の皇后。この4首は、嫉妬深いという伝説のある皇后に伝誦歌が仮託されたものと考えられている。

 


 

◆ 「ひととき」2010年9月号より

 

 

 

 

 

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