万葉集巻二の冒頭に、磐姫皇后〔いわのひめのおおきさき〕*が天皇を思って作ったという四首が置かれている。いずれも、恋しい人を待つ思いにあふれた切ない歌だ。なかでも三首目の歌に、私は惹かれる。
ありつつも君をば待たむ
うちなびく我が黒髪に霜の置くまでに
(巻2-87)
ここには「待つ」ということへの強い決意がある。
「ありつつも」は、ひたすら待ちつづけるという今の状態を、これからも続けていこうという覚悟。待たむの「む」は意志を表す。そして女の魅力を表す黒髪が、白髪となってしまうまでもという期限は、期限であって期限でない。つまり死ぬまで待つことをやめないという宣言だ。
この強さは、何だろう。とことん待つことをした人だけが到達する、透明な境地。待つという時間に、生き甲斐すら見つけてしまった人の、澄んだ心境。そういったものが伝わってくる。
はじめのうちは、疑ったり、悩んだり、心配したりと、心がめまぐるしく動き、泥水のように濁った状態だったかもしれない。が、嵐の後で川の水が落ち着くように、だんだんと砂粒や石ころは沈殿してゆき、濁りのない水のような時間が訪れる。そういう、激しさのあとの穏やかさが、この一首には流れている。
以前、私自身も、こんな歌を作ったことがある。
誰を待つ何を吾は待つ
〈待つ〉という言葉すっくと自動詞になる
(『サラダ記念日』)
「待つ」という動詞は、他動詞なので、文法的には「〜を待つ」というように、目的語がなくてはならない。が、いつのまにか「待つ」ということそのものが、それだけで成り立っているような、そんな気持ちになっていた。誰を待つとか、何を待つとか、そういうことではなく、もう、この「待つ」という時間を積極的な自動詞として私は生きよう、という心境である。
磐姫皇后もまた、同じような思いを抱いていたのではないだろうか。「ありつつも」の歌の前には「迎へか行かむ待ちにか待たむ(迎えに行くべきか、待つべきか)」と深く悩む歌や、「高山の岩根しまきて死なましものを(もういっそ死んでしまおうか、そのほうがまし)」というような激しい歌が置かれている。 そういうさまざまな葛藤を乗り越えたうえでの「待つ」なのだ。とことん待った人だけが住むことのできる「待つ」の国に、この人は住んでいる。
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