万葉から吹く風

2011年7月15日

»著者プロフィール
閉じる

村井俊司 (むらい・しゅんじ)

1964年、岐阜県生まれ。中京大学大学院博士課程退学。中京大学国際教養学部非常勤講師。共著『新古今集古注集成 中世古注編3』(笠間書院)、論文「赤人歌と絵画」(「上代文学」)などがある。

 長良川を西に渡ると、車窓が一層緑鮮やかになる。伊吹山がぐっと近づく。白き猪、大蛇となり東征の英雄ヤマトタケルを退けた神の山である。岐阜と滋賀の県境、日本の東西の分岐点。その麓に古代、不破の関が置かれた。不思議だが、関の正面は、都を向いているという。謀反人が東国へ行くのを警戒したとの説がある。美濃、尾張、伊勢は味方で、近江は敵方という壬申〔じんしん〕の乱の記憶が蘇る。

 時代を遡ろう。この辺りで瀕死状態であったヤマトタケルは、なぜ醒ヶ井〔さめがい〕から、関係の深い近江の氏族の湖国へ入らなかったのか。

photo: 井上博道

 古代、万葉史への興味は尽きない。

 米原駅から琵琶湖に沿って走る湖岸道路を北に向かう。秀吉の出世長浜城を過ぎ、姉川を渡った辺りから、島が刻々姿を変えつつ、見え隠れする。神の島、竹生島〔ちくぶしま〕である。湖面に目を移せば、水深70メートルの彼方に葛籠尾崎〔つづらおざき〕湖底遺跡があるという。水中考古学の神秘である。緩いカーブを右に切ると、奥琵琶湖というにふさわしい景観が広がる。この地にゆかりの万葉歌がある。

葦〔あし〕へには鶴〔たづ〕が音〔ね〕鳴きて
湖風〔みなとかぜ〕寒く吹くらむ津乎〔つを〕の崎はも

                                              
(巻3-352)

葦辺には鶴の声が寒々と聞こえる。港には風が冷たく吹いているであろう。津乎の崎よ。

 この尾上〔おのえ〕付近の冬の風景を三十一文字〔みそひともじ〕に集約すれば、この歌になる。さっと特質を詠んだ簡潔さが素晴らしい。湖北といえば、冬、吹きつける風は時に雪や霙〔みぞれ〕を伴い寒く、枯れた葦の間に水鳥が群れて浮かんでいる。万葉の時代も今も変わらない。この普遍性も嬉しい。作者は、若湯座王〔わかゆえのおおきみ〕。この一首を残すのみで、それ以外はわからない。歌にある「津乎の崎」は、平安時代の辞書『和名抄〔わみょうしょう〕』に「近江国浅井郡都宇」とあり、「津乎」を「都宇」と考え、この尾上付近の歌とするのだが、他の場所を想定したり未詳とする見解もある。また、「湖風」の「湖」は、「みなと」と訓む。

 ところで、この地方は観音の里としても知られる。有名な渡岸寺〔どうがんじ〕(向源寺)の十一面観音様を始め、幾度もの天災、戦乱を見つめ、人々の心の声を聞いてこられた多くの仏様に接すると、心が安らぐ。万葉歌もそうだが、歴史や文化は風土に厚みと潤いを持たせる。

 歴史や文化と自然が調和した風土、それが湖北の地である。その風土に抱かれ、竹生島を眺め琵琶湖の風に吹かれると、いつもありのままに生きる豊かさを、素朴な万葉歌のように、そっと知らされる。



 


   

◆ 「ひととき」2011年7月号より

 

 

 

 

 
「WEDGE Infinity」のメルマガを受け取る(=isMedia会員登録)
週に一度、「最新記事」や「編集部のおすすめ記事」等、旬な情報をお届けいたします。

 

関連記事

  • PR
  • 新着記事

    »もっと見る