2024年11月22日(金)

ヒットメーカーの舞台裏

2011年8月12日

 試行錯誤を重ね、中ブタのように釜の上部に設置するおかずケースができあがった。釜とケース本体の間から一定量の蒸気を逃がしながら、おいしいご飯を炊くための構造づくりには苦心した。ケース自体もおかずの汁が漏れ出さず、かつ内部の圧力上昇によって変形しないよう適度な密閉性をもたせる工夫が必要だった。

 おかずの温め機能は上々だった。たとえば、鶏のから揚げを電子レンジで温めると、外側は油がにじんで中は固くなってしまうということが多いが、ふんわりとした仕上がりに浅田は満足した。しかし「それでも温め機能のついた炊飯器か……」と、セールスの自信をもつには至らなかった。

 「炊飯器」では難しいとの想いが捨てきれず必死で売り方を考える浅田に、天啓のようにひらめきが降り立った。「そうだ、『弁当箱』としてアピールしよう」。ご飯の炊ける弁当箱─これなら、世の中にはない。実際、持ち運びのできるサイズだし、形状も保温機能付きの弁当箱をイメージできる。

 浅田が琳聡堂を設立したのは06年で、34歳の時だった。10年近く勤めたパチンコ関連大手の営業マンから脱サラしたのだ。営業成績は常にトップクラスだったという経験を生かし、パチンコ業界で生きていこうと起業した。だが、業界のマーケットそのものが縮小を始めていた。設立直後はオリジナル製品も開発、アルバイトを含む従業員も7人を抱えるなど何とか頑張った。

 しかし、3年もするとパチンコ市場の縮小で同社の売上も激減し、危機的状況に陥った。弁当箱は、再起と脱パチンコに向けてもがく中で生まれた。ただ、パチンコ産業に従事してきた社員の大半は、発売前の弁当箱を見ると、見切りをつけるように会社を去って行った。

 5万台と予想もしないヒットになったが、「いま、ようやくゼロ地点に戻ったところ」と、浅田に浮かれるところはない。「一度は明日はないというところまで行った。だから頑張れます」と、目下はHOTデシュランを発展させた新製品の開発に余念がない。(敬称略)


■メイキング オブ ヒットメーカー 浅田浩司(あさだ・こうじ)さん
琳聡堂代表取締役

浅田浩司さん (写真:井上智幸)

1972年生まれ
大阪府の四条畷市に生まれる。モノをつくるのが大好きで、プラモデルやラジオを片っ端から分解し、元に戻して遊んでいた。小学校では、工作、体育、家庭科が得意科目だった
1987年(15歳)
中学校のクラブ活動では、陸上競技に取り組んでいたが、高校では水泳にのめりこむ。
1990年(18歳)
大阪体育大学に進学。高校時代に引き続き、水泳三昧の学生生活を送る。全日本水泳選手権では6位に入賞。
1994年(22歳)
大学を卒業後、水泳に関わる仕事がしたいと大手スポーツクラブにインストラクターとして就職するが、半年で退社。その後、大学の水泳部の先輩に誘われ、大阪のパチンコ機器メーカーに転職。東京営業所に配属され10年近く営業マンとして働く。
2006年(34歳)
有限会社琳聡堂を設立。当初は、パチンコ業界の人脈を活かして仕事を受注した。パチンコ台の入れ替え時に発生する配線作業をスムーズにする「Pパチ」で特許を取得。20万個以上売れる大ヒットとなった。その後も、パソコンのUSBポートに差し込んで充電する電池をはじめ、自社オリジナル商品の開発に取り組んできた。

◆WEDGE2011年8月号より


 

 

 


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