明治の反知性主義が見た中国

2019年6月29日

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樋泉克夫 (ひずみ・かつお)

愛知県立大学名誉教授

中央大学法学部、香港中文大学新亜研究所、中央大学大学院博士後期課程を経て外務省専門調査員として在タイ日本国大使館勤務。著書に『華僑コネクション』『京劇と中国人』『華僑烈々―大中華圏を動かす覇者たち―』(以上、新潮社刊)など。

[著書]
写真:ロイター/アフロ

 安倍首相がプーチン大統領との“個人的信頼関係”を打ち出しながら鋭意進めてきた北方領土返還交渉は、楽観と悲観の間を揺れ動きながら時を重ねてきた。だが、6月末の大阪におけるG20を前にしてプーチン大統領は唐突に「ニエット」(ロシア語で「いいえ」の意)である。“期待の風船”は一気にしぼんでしまったようだ。

 これまで日本はロシア(ソ連)から何回煮え湯を飲まされてきたことか。その原因は、いったい、どの辺りにあるのか。戸水寛人(文久元=1861年~昭和10=1935年)の旅を追いながら考えてみようと思う。

 戸水は日露戦争直前の1902(明治35)年9月に東京を出発し、敦賀からウラジオストック、グロデコフ、ハルピン、旅順、ダルニー(大連)、旅順、芝罘、牛荘、錦州、山海関、秦皇島、山海関、天津、北京、張家口、ハノルパ、トウタイ、チャーカントラハイ、張家口、北京、天津、芝罘、仁川、京城、仁川、釜山、長崎、門司、神戸を経て11月に新橋に帰着している。まさに駆け足で「滿州蒙古北清朝鮮を漫遊し」ている。

 旅立ちに当たり「若し日本の政治家が私の議論を用ひずして兵力を用いることを止めて唯言論を以て露西亜と争ふ積りならば或は失敗に終るでせう」と宣言するほどだから、旅程を追うごとに戸水の主張はヒートアップするばかり。だが、日露戦争前夜の旅であることを予め承知しておいてもらいたい。

日本に対し「不当の扱い」を繰り返してきたロシア

 「強盗が沢山居る」というウラジオストックに上陸した戸水は、「露西亜上流社会にも余り感服出来ぬ」ようであった。「彼等が賄賂を好むことは支那人と余り違ひませぬ」とした後、「上流社会すら賄賂を好みますから下流は尚更さうで」とあり、税関の役人でも警察官でも賄賂を与えれば、チョットした不法なら大抵は見逃してくれると記す。

 じつは「日本人中には恐露病者も沢山有る様だが露西亞内部の腐敗は甚しいものです」。そんなロシアを恐れることはない、と訴える。

 戸水は自らの調査に基づき、ロシアの政治家の狙いは旅順・ダルニー(大連)の隆盛と満洲の領有にありと見定めた。だが、日本としてはこれを黙視しているわけにはいかない。

 ウラジオストックでは日本からの輸入品に対する扱いが他国に較べて不当に過ぎる。また同地経由で「満州に入らんとするの日本人に対しては時として甚しき侮辱を加へ或は乗車に防害を加へ甚しきに至りては之を監禁して平然たり」。ロシア政府は日本との間で結ばれた条約を「無法の解釈」によって運用し、日本に対し不当の扱いを繰り返す。ロシア政府自らも「無法の解釈」であることを十分に判っているにもかかわらず、である。それというのも「能く日本人民の闘志無きを看破する故」であり、それを甘受する「日本人民の意気地無きと露国の無法無遠慮は是蓋し天下の好一対なり」と憤る。

 「能く日本人民の闘志無きを看破する」ゆえにゴリ押しするロシアに対し、結果としてそれを受け入れてしまう日本――「是蓋し天下の好一対なり」とは、戸水の時代から1世紀以上が過ぎた現在の両国の関係にも当てはまるようだ。なぜ、そうなのか。なぜ、1世紀が過ぎても変わらないのか。いや、変われないのか。

 ウラジオストックの人口は1901(明治34)年1月1日段階の調査では37,597人。翌年に上陸した「支那人の数ですら四万人以上」。居留民事務所に届け出ている日本人は3000人ほど。これ以外に「何処から来た人か分からぬものも隨分」と居るようだ。驚くことに日本人女性で「支那人の妾となりて居るもの」は、不確かな数だが「三百人位は居るだらうと思ひます」。彼女らの間では「互い連絡が付て居るよう」であり、特に組織化されているわけでもなさそうではあるが、先に立つ者がいて互いに連絡を取りながらイザという時には助け合っているようだ。

 ウラジオストックには「支那の出稼人が頗る多」く、「大抵は山東から来たのです」。加えるに「満州の支那人も山東から来たものが余程多い」。じつは当時の満洲各地には山東省からの出稼ぎが少なくなかったのだ。

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