2024年5月18日(土)

WEDGE REPORT

2021年6月10日

両親の屈辱、恥を目にし、彼らに頼ることなどできないと学ぶ

 本の後段になると、パク・ホン氏は思いついたように、幼いころからずっと抱えてきた本音や忌まわしい記憶を吐き出していく。

 <レイシズムの一つの特徴に、子供が大人のように、逆に大人が子供のように扱われることがある。自分の親が子供のように低く見られるのは、ひどく恥かしいことだ。私の両親が白人にへりくだり、白人にバカにされたことは数え切れない。あまりにも当たり前のことだけど、母が白人の大人と出くわしそうな時、私はいつも異常なほど警戒し、うまく仲を取り持つか、彼女を白人から引き離す。アメリカでアジア系として育つということは、自分にとって権威である両親の屈辱、恥を目にし、彼らに頼ることなどできないと学ぶことだ。彼ら両親は自分を守り切れないと。この国でアジア系である屈辱は十分に伝わっていない。

 私たちは、自分たちはうまくやっているという嘘に怯えてきた。頭を垂れよく働くのは、その勤勉さが自分たちに威厳をもたらすと信じてきたからだ。でも、勤勉は私たちの存在をただ消しただけだ。

 アジア系が自ら声を上げなければ、私たちの恥辱は抑圧的な文化と祖国に根ざしたものだ、という神話をただ長引かせるだけだ。アジア系が米国でうまくやっているという嘘は実に狡猾だから、今こうして書いていても、他と比べたらアジア系はそんなにひどい目に遭っていないのではないかという疑いが湧いてくる。でも、人種的なトラウマは競い合うものではない。私の幼少期は類を見ないくらいトラウマがひどい訳ではなく、それはよくありがちなことだ>

 トラウマ的な出来事として、パク・ホン氏は最後に13歳の夏のプールでの出来事を挙げる。

 カリフォルニア州オレンジ郡にあったおばのアパートで泳いでいた。おばたちは浅い所で、自分は深い方で泳いでいると、突然、白人男性に「出ろ!」と怒鳴られた。

 <男はこのプールは住民専用だと言った。そこは私のおばが暮らすオレンジ郡のアパートだった。だから私は男に、おばと小さないとこが私の妹と浅い方にいて、彼女はここに住んでおり、自分はベイビーシッターをしていると答えた。彼は終わりまで聞かず、私たちにプールから出るように言った。プールを出て、ゲートをカチッと閉めた時、彼の声が聞こえた。「奴らは今じゃ、どこにでもいる」>

 どこにでもいる。今のオレンジ郡は韓国系が乗っ取ったようなものと著者も書いている。どこにでもいて何が悪いのか。いてはいけないのか。この白人の男は何をとち狂っているのか。なぜ、そんなに傲慢になれるのか。

 <西洋人の最も破壊的な遺産は何か。自分たちの敵は誰なのかを決める権力だ。その権力が時に自分たちの同胞をも敵にしてしまう。例えば南北朝鮮の問題のように。それだけでない。自分自身をも敵にしてしまう>

 「どこにでもいる」などと言えるような人間がいなくならない限り、アジア系に対する差別はなくならないと著者は諦観しているかのようだ。

 <「将来、白人至上主義には白人は必要なくなる」。これは(ジャマイカ系アメリカ人の)芸術家、ロレイン・オグラディの2018年の言葉だ。一つの予測だが、表面的に見る限り、黒人作家、ジェームズ・ボールドウィンの50年前の言葉を真っ向から否定するものだ。彼はこう言った。「白人の日は沈んだ」。どちらが正しい? アジア系アメリカ人として私はボールドウィンに勇気づけられる。でも同時に、オグラディの言葉も脳裏を去らない>

 「マイナー・フィーリングズ」は、アジア系のみならずアメリカの非白人との連帯を説く形で終わる。

 ラテンアメリカ出身の子どもたちを収容する施設をオクラホマ州に作ろうとする政府の計画に反対する日系人の小さなグループを取り上げ、デモを率いるトム・イケダ氏の言葉を結びにしている。

 <「弱者と連帯しなければならない。なぜなら、1942年、(収容所に強制的に入れられた)日系アメリカ人には、そんな仲間がいなかったんだから」>

 これに続いて、著者の一言、<私たちはそこにいたのに何もしなかった>で本は終わる。

 中国系、韓国系、インド系、アメリカに暮らすあらゆるアジア系の存在を、まずは彼らの生きている世界を知らなければならない。そう思わせる良書だった。

  
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