2024年4月20日(土)

この熱き人々

2013年5月23日

 「まず病院、次に福祉関連の施設、学校と補修を進め、文化施設はその後だから、順番からいくと再び場が生き返るのは早くても1年後だと聞きました。こんな時こそ役立ってほしいので、有志を募りカンパを集めて、2カ月で再開することができました」

 建築はこれでいいのかという思いを抱いていた伊東は、被災地に足を運び続ける中、建築は一体誰のために造るのかという原点まで戻ってゼロから考え直さなければいけないと感じるようになっていったという。

 仮設住宅が建設されるようになり、プライバシーの確保を最大の目的として、一刻も早くと、どこにも同じものを造る。

 「仮設住宅を訪ねて何が必要かと聞くと、異口同音に縁側がほしいという言葉が返ってくる。人間には、とりわけすべてを失った被災地では、プライバシーよりも大事なものがあるんじゃないかと思いました。かつての公民館のように何でも包括し、誰でもが寄り合え、いろいろな話をし、立ち上がるエネルギーが生まれるような場所が必要なんです」

 縁側は、家の中でもなく外でもない不思議な場所で、初めての人も知り合いも何となく腰掛けられる。日本中に「つながろう」という言葉があふれても、肝心の被災地につながることのできる場がつくられず、小さな個の箱の中に人々は分断されていく。巨大な試練に見舞われた時に、どんな建物が必要なのか。まさに建築家の力が求められるはずだ。しかし、土木関係者は引っぱりだこでも建築家の出番がない。それなら自分たちから動こう。

「こどものみんなの家」は、掘りごたつのある「テーブルの家」、薪ストーブとキッチンのある「あたたかい家」、ステージのある「お話と演劇の家」の3棟から成り、子どもたちが楽しく過ごせる場になっている

 伊東の呼びかけで、山本理顕(りけん)、隈研吾(くまけんご)、妹島和世(せじまかずよ)、内藤廣(ひろし)の4人の建築家が集まり、「帰心(きしん)の会」を結成。自らの内に建築家に何ができるのかという根源的な問いかけをしつつ、復興計画に人間的な視点をどうしたら加えられるか現地の人々と話しながら実践していく。そんな模索から生まれたのが「みんなの家プロジェクト」だった。


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