被災地に集いの場「みんなの家」を次々につくってきた。東北に通うようになって気づいたことがあるという。地方には都会とは違う豊かな人のつながりがあること。そこから未来に向かう力が生まれてくるという確信。都市から人へ、建築が変わるために、いま全力で走り続ける。
人がつながる「みんなの家」
宮城県仙台市宮城野区の仮設住宅に伊東豊雄が設計した「みんなの家」ができ上がったのは、震災から約7カ月後の2011年10月。木造平屋、思い出につながる切妻屋根。仕切りのない20畳の部屋。薪(まき)ストーブ。掘りごたつの部屋。飲み会だってできる。心が安らぎ、自然と話がはずむ10坪ほどの家である。その後、岩手県釜石市、陸前高田市にも建築家と住民が一緒に取り組んだ「みんなの家」が仮設団地や商店街などに次々に生まれ、13年の1月には東松島市の仮設住宅に「こどものみんなの家」も誕生。陸前高田市の「みんなの家」が生まれるまでの経過は、昨年8月の第13回ベネチア・ビエンナーレ国際建築展で発表され、グランプリの金獅子賞に選ばれている。
東京、青山通りからひと筋奥に入ると、表通りの高層ビルに隠された小さな建物や空き地がある。伊東豊雄建築設計事務所は、そんな裏通りに面したかなり古いビルにあった。
2011年3月11日、伊東はこの事務所で14時46分を迎えた。仙台には伊東が設計し01年に竣工した「せんだいメディアテーク※」がある。翌朝、やっと現地と連絡がとれ、けが人はなく構造的にも大丈夫だったが、一部ガラスが割れ最上階の天井がダメージを受けたことを知った。
「メディアテークがちょうど10周年を迎えようとしていた時の震災でした。90年代、すべてを機能によって切り分けていく近代の思想に疑問を感じ始めていたんです。中と外、子どもと大人、世代別、目的別とどんどん細かく分かれていって、間を曖昧にしていくことを嫌う。これでいいのかという思いがありました。メディアテークは建築家としての方向を転換するきっかけになった建物です」
市民がリビングのように使う。特別の用事がなくても何となくやってきて時を過ごせる場所。いろいろな人が出会い、つながりが生まれる場所。そんな公共の場として市民が利用できる建物は、町が甚大な被害を受けた時こそ力を発揮してくれるのではないか。しかし、そんな伊東の期待は叶えられない現実があった。
※仙台市の文化、芸術、情報発信・交流施設