誰のために建てるのか
「みんなの家」というネーミングを初めて聞いた時、ちょっと驚いた。あまりに普通。斬新で都会的でカタカナ系─それが日本を代表する建築家に抱いてきたイメージだったから。
「小さくてもいい。目的なんかなくてもただそこに集まれる場所だから、わかりやすい名前がいい。そう考えたら『みんなの家』になった。説明すると『ああ、コミュニティーハウスのことですね』って言われる。ちょっと違うよなあって思う。でも、建築家がコミュニティーという言葉をやたら使ってきたんですね。大学の建築学科でも、コミュニティーをこういう形で作りますと言い、そのコンセプトはいいねえなんて言葉が飛び交っている。これじゃ建築家が建築家のために作っているようなもので、論理だけが空転している。こんなことばっかりやってたから、町を再建しようという時に、被災地から建築家にお呼びがかからなくなったんです。情けないですよね。恥ずかしいことでもある。でも自業自得というところもありますね」
建築家という言葉の中には、伊東自身もきっと含まれているのだろうと思う。かなり激しく自らを批判する言葉を耳にしながら、これらの言葉につきまとうじっとり粘りつく悔恨の情や時代への怨念めいた屈折が不思議にからんでこないのを感じていた。むしろカラッとした力強さが漂う。懸命に進んできた道の前に壁が立ちはだかった時、立ちすくむのではなく、憤慨するのでもなく、“ならばもう1度”とまっすぐ乗り越えて先を進む。そんな姿が浮かび上がってくる。
伊東は1941(昭和16)年生まれ。2歳の時に京城(現ソウル)から父の故郷である長野県に引き揚げ、諏訪湖の畔で穏やかな湖面と町を取り囲む山々を眺めながら育った。
「ボーッとした子だったみたい。変化のない穏やかな世界にとてもなじんでました」
しかし、父を失い、15歳で東京に引っ越した。戦後復興期の東京は、激しく変わっていく。諏訪と東京という全く違う世界をつないでいたのは、夢中になっていた野球だった。
「神宮球場に出られるかもしれないと東大の文Ⅰを受けて失敗。その後、野球をあきらめて、それならエンジニアの方が向いてるかなと2年目は理系に変えました。建築学科を選んだのは、当時入りやすかったから。あんまり深く考えてなかったなあ」
興味をもって入ったのではなく、入ってから少しずつ興味をもつようになるという形で建築の世界とかかわり始めたわけだ。東京オリンピックを前に世の中は建設ラッシュ。母はゼネコンに入ったほうが一生安泰ではないかと勧めたが、伊東は4年生の時にアルバイトをした菊竹清訓(きよのり)建築設計事務所に就職した。