手作りの服から既製服が装いの主流になった70年代、
自らの感性でコーディネートを表現する
スタイリストという新しい仕事を切り開いた。
未踏の道を踏み分け築いてきた40年のキャリアは
ファッションの楽しさを多くの人に伝え続けるためのゆるぎない礎となっている。
先駆者として
2012年夏、『原由美子の仕事 1970→』(ブックマン社)という400ページ近いずっしり重い一冊の本が刊行された。原由美子自身が、3年の年月をかけて自らの40年の仕事を克明に綴った本は、戦後日本のファッション史としても、今では一般的に認知されているスタイリストという仕事の誕生から40年の記録としても大変に興味深い。今では、ファッションのみならず生活一般まで多岐にわたる分野でスタイリストが活躍しているが、原由美子より以前に雑誌のスタイリストという仕事は存在しなかったのだから、まさに草分けであり、日本を代表するスタイリストなのである。
「草分けってよく言われたけど、この本を書き上げて、ああ、本当に草を分けてきたんだなあって思いました。スタイリストという仕事は今では一般的に認知されていることになっているけれど、まだ『実際には何をする仕事なんですか?』と聞かれることもあるんです。さまざまな方面でそれぞれの方法で仕事をする人が増えて、広がりすぎた結果、また説明するのが難しくなっているのかもしれませんね。朝、今日はどんな服を選び、どう組み合わせるか考えることもスタイリングですから、そういう意味では誰もみんなスタイリストといえる。試験や資格があるわけでもなく、どこからがプロなのか不明なんですね。プロになるにはどうしたらいいのか、ずっと考えながら仕事をしてきた気がします」
原が、仕事の原点とした1970(昭和45)年。大阪で万国博覧会が開催された年の3月、フランスの女性誌「エル」と全面提携した大判のオールグラビアの「アンアン・エルジャポン」が創刊された。その前年の69年、当時、フランス語の翻訳の仕事をしていた原のもとに、フランスから届く「エル」の翻訳や資料の整理をする人を探していた平凡出版(現マガジンハウス)から、知り合いを通して声がかかったのである。
「フランス文学を勉強したくて仏文科に入ったんだけど、そのためにはフランス語の勉強をするのが先決。結局、文学よりフランス語をもっと勉強したくなって、卒業後も日仏学院に通いながら翻訳の仕事をしていたんです。人見知りだったので、ひとりで辞書引いて訳していればいい仕事は楽だったんですけどね」