そんな翻訳の仕事の延長として創刊準備室に通うようになった原は、日々、最先端をいく「エル」から送られてくる膨大なポジフィルムを眺めながら最新のファッション情報を真っ先に読み、しだいにファッションそのものに興味をもつようになっていった。
「『エル』の資料の整理担当から『エル』担当になり、アートディレクターやカメラマン、デザイナーの人たちと一緒に仕事ができることが面白くて夢中でした。そんな中で、こういう仕事をしてみたいなという自分の思いが生まれてきたんです。もともとファッション雑誌が大好きで、読む立場から作る立場になった喜びは大きかったですね」
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時代が目覚めた
原が生まれたのは1945年。幼少期を過ごした50年代はまだ日本中が戦後復興の最中で、今のように洋服が街にあふれる時代ではない。ただ、父が服飾評論家、母がおしゃれ好きで立体裁断まで習って服を作ってくれる家庭に育った原には、そんな両親を通して暮らしの中で培われたファッションへの豊かな感性があったのだろう。
しかし、ファッションページを作るという原が心惹かれた仕事は、それ自体が初めての試みであり、アートディレクターや編集者やカメラマンとともに、企画を考え打ち合わせを重ねながら進行していくという草創期の混然としたものである。もちろんスタイリストという仕事の名称もなければ区分も不明瞭。
「男性の編集者から、アイドル歌手用に何でもいいからかわいい洋服探してと頼まれたり、撮影のロケハンをしたり。当時はヘアメイクはみんな自分でしていたし、撮影許可ひとつにも、頼むほうも頼まれるほうも初めてのことで、まさにすべてが手探りで手作り。服を選ぶ仕事のほかに、編集者だったり、撮影責任者だったり。草創期は強くならざるをえない。でも大変な分、自分の思いを完全に表現化することはできましたよね」
73年からパリコレの取材も始めた。日本からパリコレの取材に出向くというのも初めてで、ここでもまた手探り。新聞社などの媒体を通して登録しないと招待状がもらえない。お願いして登録はしてもらっても、誰かがお膳立てしてくれて取材費も出してくれるわけではない。すべて自分で行動し、自腹を切っての取材である。