2024年4月25日(木)

この熱き人々

2013年5月23日

 「菊竹先生の事務所にいた4年間で、初めて建築は面白いと目覚めました。当時は、経済成長する日本で建築も街もまた成長し変化していくというメタボリズムが全盛で、菊竹先生はその主導者でした。だからその理論によってデザインするのだと思ってましたが、菊竹先生は理論の人じゃなかった。もっと感覚的で身体感覚そのものが建築になっていく。体中でこれだ!という思いが噴き出した時に建物ができるという感じ。菊竹先生に出会って、建築ってすごいと思いました」

 しかし69年、大阪万博開催寸前に伊東は菊竹事務所を辞めている。昼間はエキスポセンターの仕事をして、夜は仲間と議論する。学生運動の嵐が吹き荒れる時代で、世の中は権力に抗する“反”のエネルギーが噴出していた。

 「70年を境に日本の建築は変わったと思います。メタボリズムの時代は、国家と建築は一体化して未来都市を描くんだという勢いでしたが、70年代に入ると社会の外側に立って社会を批判するという思想を建築でどう表現するかという流れが生まれました。その思想的なリーダーが磯崎新さんでした」

 オリンピックも万博も終わった70年代は、オイルショックで経済は停滞し、反体制の勢いもすっかり影をひそめ、社会が動かなくなった中で意識だけが研ぎ澄まされていく。感覚は尖るが、批判的でどこか悲観的な意識が漂う。

 「何も仕事がないから、批判精神だけが渦巻いちゃってね。たまに親戚の家の注文がくると、たまったものを爆発させる。住宅とはこういうもんだ! みたいにね。マスコミが取り上げ、日本ではこんな住宅ができているなんて海外にも紹介される」

 伊東のデビュー作は71年の「アルミの家」。「中野本町の家」は馬蹄形の打ちっ放しコンクリートで外周部に窓はなく中は白一色という、内側に美を追求した空間が表現されている。

地方から建築が変わる

 「40歳を過ぎたころから、これではまずいんじゃないかと思うようになりました。もっとポジティブに考えよう。社会の外から批判するのではなく、社会の内側からもっと肯定的に建物を考えられないだろうかと思うようになったんです」

 「みんなの家」へと至る道は、実はそこから一歩が始まっていたのかと思う。否定的から肯定的。社会の外と内。180度ともいえる転換点なのだろうが、なぜか激変という感じがしない。住む場所が変わり、見る景色が変わり、時代が変わり、機能的な都市が膨らむ中、都市の中で生きてきた伊東の内奥には、いつも諏訪の景色とその中を世界としながら生きる人たちの姿が変わらずにあったのではないか。その原感覚と意識的に再び出会うために不器用に懸命に素直に建築家の道を歩んできて、やっと巡り合った。曲がって見えても実は身体感覚の核に辿り着くまっしぐらの道……ふとそんな気がした。


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