2024年5月20日(月)

スポーツ名著から読む現代史

2022年10月28日

イチローを発掘した名スカウト

 三輪田は愛知・中京商(現中京大中京)から早大に進み、東京六大学で通算23勝6敗、防御率1.66の好成績を残した。大学4年時のドラフトでは、近鉄(後にオリックスと合併)から1位指名を受けたが、事前に近鉄側から接触がなかったこともあって入団を拒否。社会人野球の大昭和製紙に入社した。社会人で2年間、実績を積んだ三輪田は阪急(後のオリックス)から1位指名を受け、今度はプロ入りした。

 当時の阪急は闘将・西本幸雄監督の下、黄金時代を築き上げようとしている過程で、投手陣も米田哲也、足立光宏、梶本隆夫ら駒がそろっていた。三輪田はそこに食い込むことができず、現役生活はわずか4年間、中継ぎで挙げた4勝(0敗)、防御率2・31で現役を引退した。誠実な人柄と、東京六大学での実績を買われ、スカウトに転身した。

 三輪田が「名スカウト」として評価を高めたのは、イチローを発掘したことだ。愛工大名電の鈴木一朗と三輪田が初めて出会ったのは1990年の夏。高校の1年上にドラフト候補の左腕投手、伊藤栄祐がいた。

 <伊藤が目当てで愛知県大会を見に行った三輪田の目に、ミートのうまい2年生選手が目に止まった。クリーンアップを打ち一塁や外野を守る鈴木である。バットの真っしんでとらえてはじき返された打球はラインドライブがかかっていた。もしかしたら……この世界で俗にいう〝化ける可能性あり〟と、三輪田はこれからも要注意の選手として、リストに入れておいたのである。>(同書212~213頁)

 この年、愛工大名電は伊藤の活躍もあって愛知県大会を勝ち抜き、甲子園に出場したが、優勝した天理と1回戦で当たり、1-6で敗れ、鈴木に注目が集まることはなかった。新チームとなって鈴木は投手で4番を打つことになった。

 秋の愛知県大会で優勝し、中部大会は準優勝で翌年春のセンバツ出場につながった。しかし、2度目の甲子園となったセンバツでも鈴木は結果を出せなかった。1回戦で長野・松商学園に2-3で敗れた。投手としては10安打を打たれ、スピードガン計測は最速130キロ前後。打者としても無安打で、いいところなく甲子園を後にした。

 センバツ後も三輪田は鈴木を追い続けた。足を運ぶたび、驚かされた。打球は飛距離を伸ばし、脚力も凄みを増していった。

 夏の愛知県大会。愛工大名電は鈴木の投打にわたる活躍で順当に勝ち進んだ。とりわけ打撃がすさまじかった。東邦高との決勝まで、鈴木の打率は7割5分を記録していた。だが、決勝で愛工大名電は東邦高に敗れ、鈴木にとって3季連続の甲子園出場はならなかった。

 オリックスはその年の秋のドラフト会議で鈴木を4位で獲得した。早い段階から投手としてではなく、打者としての成長を見届けてきた三輪田のスカウトとしての眼力の確かさは、プロ入りして存分に発揮されることになる。入団して2年間は首脳陣とそりが合わず、1軍と2軍を往復していたが、3年目、監督に就任した仰木彬に才能を見出され、登録名を「イチロー」にして大ブレークした。その後の活躍は説明するまでもなかろう。


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