2024年5月20日(月)

「永田町政治」を考える

2023年9月3日

 やはり古い話だが、1971(昭和46)年7月、佐藤栄作内閣最後の改造での福田赳夫外相(後に首相、福田康夫元首相の父)の登場も、同様の狙いからだった。

 大蔵省出身の福田氏は財政の専門家、蔵相の経験はあったが、外交には縁が少なかった。佐藤氏は、難航が予想された沖縄返還協定の批准案の国会審議を控え、腹心で実力者の福田氏にその乗り切りを委ねた。

 政策遂行型では、このほか、消費税を導入した竹下登内閣が、関連法案審議にそなえ、1987年の総裁選を争った宮澤喜一氏(後、首相)を副総理兼蔵相として入閣させた。小泉純一郎内閣では、郵政民営化を実現するため、第1次政権の2回目の改造時に麻生太郎氏(後首相、現自民党副総裁)に所管の総務相をゆだねたケースなどがある。

党内融和のためライバルを取り込む

 政策遂行とも関連がある党内融和・挙党体制型では、総裁選で争った河野、高市両氏のほか野田聖子氏を党役員、入閣で処遇した岸田現内閣もその範疇に入る。

 やはり激しい争いだった1987年秋の総裁選。退陣する中曽根康弘首相の裁定で、竹下登氏が後継に指名された。

 竹下氏は組閣に当たって、総裁を争った安倍晋太郎氏(安倍首相の父)を幹事長に就け、すでに述べたように、宮澤氏を蔵相として入閣させ、しこりの解消を図った。 

 党内亀裂の修復は中曽根氏の期待でもあったろう。筆者は、晩年の中曽根氏が竹下指名を振り返って述懐するのを聞いたことがある。「党内対立が激しかったからね。難しい決断だった。新総裁が決まって最初の両院議員総会での退任あいさつで、『これからは球拾いに汗を流したい』といった時、大きな拍手が起きた。これで安心した」

 5年近く首相の座にあって、強い指導力を誇った中曽根氏ですら懸念するほど党内の亀裂が激しかったということだろう。

 繰り返し、古い話になるが、党内結束、融和を目的とした人事で語り草になっているのは1961年の第2次池田内閣の第1次改造で登場した人呼んで「実力者内閣」だ。

 大蔵官僚出身の池田は党務を苦手としていた。就任した前年秋の総選挙で300議席と大勝しながら議長人事が難航、新年度になって政治的暴力行為防止法なる法案が流産した。この背後に反主流派による暗躍があったことを知った池田は、党内融和の重要性を痛感、7月の〝定期異動〟で佐藤栄作(通産相、後首相)、河野一郎(農相)らのライバルに加え、三木武夫(科学技術庁長官、後首相)、藤山愛一郎(経済企画庁長官)、川島正次郎(東京五輪担当相)ら派閥領袖のほとんどを入閣させた。大野伴睦は自民党副総裁に据えた。

 池田は「実力者内閣」によって一時的にライバルの動きを封じた。この時の改造ではこのほかに、水田三喜男(蔵相)、荒木万寿男(文相)、福永健司(労働相、後衆院議長)、中村梅吉(建設相、後衆院議長)ら戦後政治史を彩る錚々たる顔ぶれが入閣した。

大向こうをうならすのが狙いのスター入閣

 人心一新も改造の目的であることを考えれば、失点回復、手堅さ追求の人事配置では面白みがない。新星を登場させ華やかさで国民の耳目を引くことも必要だ。

 スター起用で記憶に新しいのは2019年9月、第4次安倍内閣2次改造で環境相に起用された小泉進次郎氏だろう。当時38歳、曾祖父以来の4代目、小泉元首相を父に持つ毛並みの良さ、人気アナウンサーの滝川クリステルさんとの結婚で国民的人気が高い進次郎氏の起用は話題性十分だった。

 やや時代をさかのぼるが、筆者には1989年8月の第1次海部俊樹内閣での森山眞弓官房長官が印象に残る。

 この政権は、前任の宇野宗佑内閣が首相自身の女性スキャンダルによりわずか2カ月余で退陣した後に登場したが、新任官房長官がやはり同様の問題により2週間余で辞任したため、環境庁長官だった森山氏が横すべりした。海部首相の狙いは、相次ぐスキャンダルに眉をひそめた女性たちへの謝罪の意味合いもあったろうが、森山氏は〝お詫びの印〟などにとどまらず、存分に力量を発揮した。


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