林道に引き上げると、性別、年齢、体長、体重などの身体測定をして、耳に標識をつけて車のクマ専用捕獲檻に乗せる。このクマは雌の5歳、体重80キログラム(kg)だった。年齢は牙に現れる年輪状のもので測定する。
さてそれからが問題だった。捕獲檻に入れたクマをどこで放獣するかである。
作業職員やハンターたちいわゆる地元住民たちは、クマの仕返しを恐れてできるだけ遠くで放獣してもらいたい。できれば長野県の方へと主張した。しかしそれは規定でできないと獣医は言う。
クマには県境なんか関係ないだろうが、どちらの言うこともよくわかる。結局県内の奥山に連れて行って、放獣前に2度と人里に近づくなとお仕置きの唐辛子スプレーを顔にかけるのだそうだ。おまじないの域を出ないような気はする。放獣は車内からロープを引いて檻の入口を開けるようになっている。
しかし、今にして思えば、もしこのクマが仕返しに来て作業職員たちを襲ったなら、撃ち殺してしまえと命令できなかった筆者は後悔しただろう。何しろクマは一晩で30キロメートル(km)も歩くのだ。
見えてくるクマ対策の問題点
この筆者の経験からクマ対策の問題点が見えてくる。
① 捕獲までの手続き・放獣までの手間
林業においては、クマもさることながらより多くの被害を樹木にもたらすシカの方が問題である。だから括り罠によるシカの捕獲を継続しなければならないのだが、このような錯誤によるクマの捕獲が発生する。
そうすると一旦山の現場から村役場に降りて連絡し、県の鳥獣保護担当者の指示を待たねばならない。そして放獣に至るまで早くても半日以上かかる。その間通常の仕事はストップだ。逆に言えば、野生動物に対して手厚い保護政策が行われていることがわかる。
② 麻酔銃
麻酔銃と言うからライフル銃のような精密なものを想像していたが、注射器を発射する吹き矢だった。手軽と言えば手軽なので現場で使用するにはメリットも大きいが、射程距離はせいぜい10メートル(m)といったところで、檻で捕獲されたクマや今回のように身動き取れなくなったクマにしか使用できない。
ふつうに活動するクマであれば、射手が10mまで近寄れば確実に襲われる。市街地では銃器の使用に制限もあるので、簡単に麻酔で眠らせればいいじゃないかという議論は実態にそぐわない。
③ 捕獲後の運搬
捕獲後、道路から近いところならよいが、山の傾斜地から運び出す労力は大変である。殺して現場に埋めれば簡単と思われるかもしれないが、樹木の根が絡み合った山中で穴を掘ることは容易ではない。これはシカ等でも同じで、撃ち殺してそのままにしておくと、他のクマの餌になってしまい、肉食を覚えるとさらにクマの危険度が増してしまう。
④ 放獣場所
クマにとっては県境などの行政区画は関係ないが、人にとっては感情的に許せないものがある。県境付近でそれぞれ他県に放獣しあっても意味がないから、やはり県内で放獣するのは妥当であろう。
⑤ 林業作業の安全
林業の現場ではいつもクマと同居して仕事をしている。しかし、通常は人とクマの住み分けがなされていて、お互い目視することはあっても一定の距離は保っている。しかも林業従事者はチェーンソーや刈払機などの騒音を発する機械や鉈、鎌などの手工具を携行しており、いざとなればこれらが護身用に使用できる。このへんが里山と市街地の違いである。