2024年5月18日(土)

橋場日月の戦国武将のマネー術

2023年12月27日

 さらに畳みかけるように、武田勝頼は天正2年(1574年)に入ると美濃へ侵攻。苗木・串原・明知などの諸城を落とした。そのまま武田軍が南下すれば、そこは三河だ。

 続いて勝頼は遠江で兵を動かし、6月に高天神城を陥れた。高天神城の南は海に近い中村郷まで武田家の支配下となり、掛川城は武田の海に突き出た岬の様になっている。家康の浜松城も東西を武田氏に脅かされ、北の二俣城も武田支配下。もはや風前の灯といった有り様だ。

油に火を注いだ信長の黄金

 また信長のやり方も、まずいと言えばまずかった。高天神城が開城降伏した時、彼は「救援が間に合わなかった罪滅ぼし」という名目(実は別の計算があったのだが、それは別のテーマとなる)において吉田城で家康に意外なプレゼントを提供した。「黄金入りの皮袋2つ」である。

 ひとつを男2人がかりでようやく担ぎあげるほどの重さで、『当代記』などには馬1駄分の金子とあるから、重さは1つ最大70キログラム弱。金子1枚を120グラムとして580枚、一駄で1160枚となる。

 小判にすると1万1600枚。これを現代の価値に換算すれば実に23億円以上、基準の置き方によっては34億円にもなろうかという莫大な金額だ。

 当時の家康は三河・遠江2カ国の主ながら、再三書いているように武田氏の侵食を受けていた。東三河北部では長篠城を奪回するなど一進一退だが、遠江での劣勢は明白で、だいたい一国の5分の2近くが敵の支配下に落ちている。

 総石高を44万石(完全支配なら55万石)とすると、実際の年収は80億円、戦いに次ぐ戦いで経費は出ていくばかりだから内部留保など出来ても数億円だっただろう。信長はそこへ徳川家の10年分の内部留保分にも匹敵しようかという巨額の資金を持って来た。まさに信長のカンフル注射ですよ。

 だけど、少し違和感が無いだろうか? あの、合理主義の代表のような信長ですよ。馬一駄分とは言え、余分なお金をうろうろと持ち歩くというのも妙だ。

 これに先立って彼は尾張の知多半島・海東郡(名古屋の西、津島を含む一帯)の家臣に「商人の取引米(「商売の米」)を船で遠江の在陣衆に届けよ」と命じている。遠江在陣衆に兵糧米を搬送せよというのだが、運ぶ先は言うまでもなく徳川方の拠点。これが実に微妙このうえ無い文章だ。

 この文面を見て読者はどうお考えだろう。信長は黄金だけでなく兵糧米まで気前よく家康にくれてやろうというのか? なるほど、徳川が武田に駆逐されれば織田勢力圏の東の防壁は消滅し、信長は本願寺と武田に直接挟み撃ちされる危険があるから、なんとしても家康に頑張って欲しいところだ。

 しかしながら、彼は「商売の米」と書いている。そうである以上は米を商品として見ており、それを遠江に運んで売れと命じていると解釈するべきだ。タダで運んでくれてやれ、では重商主義の信長の足元は商人たちにそっぽを向かれてたちまち崩れてしまう。

 かといって自分が代金を払う、とも信長は言っていない。とどのつまり、米代は運んで行って売る相手の徳川家から取るしかないという結論になる。

 その財源は、吉田城で引き渡された黄金だ。家康に黄金を与えるのは良いが、その黄金で織田家の商人の米を買わせれば、黄金は尾張に戻って来て一部はまた税として信長の金蔵に収まる。なんとも効率の良い話だ。後に安土城での第1回相撲トーナメントで選抜23人の力士に与えた褒美が扇子だった他、吝嗇(りんしょく)ぶりを物語るエピソードが多い信長らしいといえばらしい。


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