2024年5月18日(土)

橋場日月の戦国武将のマネー術

2023年12月27日

 要するに、大岡一族は信濃-三河-遠江を股にかけて栄えていた通交流通に従事していた可能性が高い、ということだ。

 まだまだ注目すべき点はある。弥四郎が直轄領の代官頭だったと述べたが、代官としての彼が支配していたのは三河奥郡。これが何より重要だ。

 奥郡というのは渥美郡、渥美半島一帯を指す。地図を見て欲しいのだが、渥美半島というのは三河湾に突き出ており、すぐ目の前に伊勢志摩・鳥羽を望むという地理になっている。

 当然、伊勢神宮とも古くから行き来が繁く、伊良湖岬には神宮の御厨(領地)もあり、熊野へつながる「いらごのわたり」あたりでは海賊も活動していたという。海賊が出たということは、すなわちこの渡りでは人と物資が盛んに行き来していたことを意味する。なにしろ海賊の目的はその関税を徴収することなのだから。

 弥四郎がそのあたりの代官を務めたのは、彼が三河湾から伊勢湾・伊勢志摩にわたる流通活動にも絡んでいたと考えても無理は無い。

 弥四郎が岡崎の町奉行や総支配頭だけでなく信濃や遠江、伊勢までの通交に深く関わっていただろう事は、これでお分かりいただけただろうか。

事件の背景

 通交は経済活動だけでなく、情報の集散にもつながる。弥四郎が自分に厚い信頼を置き、好待遇を与えてくれる家康を見限って、武田勝頼に賭ける決断を下した背景には、彼を納得させるだけの材料があったはずだ。

 それが、2年半前の「三方ヶ原の戦い」だった。すでに書いた様に、勝頼の父・信玄は大軍を率いて遠江・東三河を席巻し、浜名湖沿岸の気賀など(少なくとも)一部を支配下に置いた。

 一体全体、浜名湖の経済活動が生み出す利益はどれほどのものだったのか? それを示す史料は残念ながら見つかっていないが、例えば上杉謙信の収入の柱だった越後の直江津・柏崎湊は年間4万貫もの富をもたらしたという。

 現代の価値なら40億円に換算できる。もちろん日本海貿易の一大拠点である両湊と浜名湖とを簡単に比べるわけにはいかないが、それでも家康と信玄が奪い合った浜名湖利権が小さいものだったはずが無い。

 数字に敏い弥四郎は武田氏によってその利権が蚕食されつつある現実を重く受け止めたと思われる。


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