2024年5月13日(月)

古希バックパッカー海外放浪記

2024年2月18日

高邁な理念で思い出したネパールの有機栽培コーヒー

コーヒーショップの『セイロン・コーヒー・ルネッサンス』のポスター。産業革命による経済力を背景に7つの海を支配した大英帝国のシンボルであるビクトリア女王

 セイロン・コーヒー復活の想いのこもったパンフレットを見ていたら、7年前のネパールのカフェを思い出した。ネパールのポカラ湖畔の見晴らしの良い高台で、カフェとゲストハウスを経営していたK氏。ネパールも気候的にコーヒー栽培に適しており、日本はじめ外国のコーヒー会社が支援して近年有機栽培コーヒーとして先進国市場に輸出されている。“ヒマラヤ・コーヒー”というブランドを確立しつつある。

 K氏は世話になったネパールに恩返ししようと、貧しい子どもたちをゲストハウスの空いた部屋に住まわせて学校に通わせていた。ネパールには学校に行けない子どもが沢山いるのだ。そして放課後は、ゲストハウスの手伝いとカフェの手伝いをさせる。将来ゲストハウスのマネージャーやバリスタになれるように教育していたのだ。貧困対策の一丁目一番地は教育と職業訓練ですと語っていたK氏の情熱を思い出した。

コーヒー栽培農園はどこに

 ヌワラ・エリア逗留中にコーヒー栽培パイロットファームへの訪問を検討したが、宿からローカルバスで4時間、さらにバス停から十数キロの山中なので断念。宿で聞くと意外にも歩いて行ける至近距離にコーヒー農園があるという。携帯電話番号に電話するとオーナー自身が出てきて手術のためコロンボに滞在しており、不在中は農園を閉めているとのこと。入院中のオーナーに無理やり頼んで近隣の他のコーヒー農園の支配人を紹介してもらった。

 グーグルマップでチェックすると宿から30キロくらいだ。ローカルバスを2回乗り換えて3時間。渓流を上り切ったところにある山奥の村に到着。さらに三輪車タクシーで紅茶畑の広がる悪路の山道を30分上り頂上の作業小屋へ。支配人は小さな製茶工場で待っていた。

M紅茶農園の歴史は『セイロンのコーヒーと紅茶の物語』

手塩にかけたコーヒーの実を指すM紅茶農園の支配人のD氏。セイロン・コーヒー復活に夢を託していた

 支配人のD氏はアラフォーのタミル人カトリック教徒。この地域はポルトガル植民時代の布教活動によりカトリック教徒が多い。地元の公立学校もカトリック系公立学校である。D氏も三輪車タクシーの運転手もその公立学校出身だ。

 D氏によるとM紅茶農園はスコットランド人植民者が1891年にコーヒー農園として創業。コーヒーの木がさび病で壊滅したので1900年から紅茶栽培を開始。周辺で見える限りの丘陵地帯は全てM紅茶農園の所有地だ。輸出用の大きな製茶工場は麓にある。山上の小さな製茶工場は試験用という。緑茶風に製茶したサンプルを頂いたが、ダージリンのファースト・フラッシュ(春先の一番摘み)のような淡い上品な味わいだった。

 オーナーは国際的に気候変動の影響でコーヒー豆収穫量が年々減少しているなかでセイロン・コーヒーを復活させようと2020年からコーヒー栽培を開始した。気候的に土壌・雨量、年間気温などコーヒー栽培に適していることは歴史的に証明されているので良質のコーヒー豆が収穫できるとオーナーは確信しているという。

 2020年に2800本のコーヒーの木を紅茶の木の間に植樹。コーヒーの木は樹高が高いので紅茶の木への直射日光を遮蔽する効果があるので混在栽培するとのこと。近くでは茶摘み女たちが収穫していた。なるほどコーヒーと紅茶を混在栽培すれば通年で収穫できるというメリットもある。

 コーヒーの実はそろそろ赤く熟れてきて収穫が近いようだ。D氏に勧められコーヒーの実を食べるとサクランボのような味と食感だ。残った種を洗って乾燥させたものがコーヒー豆になるという。

 1回の収穫量は2500キロ程度。年に1~2回収穫できるという。現在ではまだ試験段階で収穫量が少ないので、コトマレのパイロットファームの工場に送って、コーヒーパウダーにして国内向けに販売しているとのこと。紅茶はMブランドとして長年にわたり日本や欧州に輸出しているのでコーヒーも収穫量が増えてくれば同じ流通ルートで海外にMブランドコーヒーとして輸出する計画とのこと。

 スリランカでコーヒーの商業生産が軌道に乗りセイロン・コーヒーが高級ブランドとして世界中に輸出されるようになれば山岳地帯の人びとの生活水準も向上するだろうとコーヒー・ルネッサンスの将来に希望を抱いた。

茶摘み作業をしている女性たち。彼女たちはコーヒーの実も収穫することで作業日数が増えて収入も増える

以上 次回につづく

   
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