逼迫する電力事情を打開してみせる。戦後日本の復興期に「水力」でその重責を果たしたJ-POWER佐久間発電所が今年、60歳を迎えた。電力史に深く刻まれたその来し方と意義を追いながらCO2フリー電源として今なお期待を集める再生可能エネルギー「水力」の可能性を探る。
戦後日本の成長を支え続けた「佐久間発電所」の60年
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鳩山一郎首相、石橋湛山通産相、馬場元治建設相……。60年前のその日、政財界の錚々たる顔ぶれから祝辞が贈られるなか、佐久間発電所(静岡県浜松市)は晴れて竣工の儀式を終え、国家振興の一翼を担う「大規模水力発電」の任務に就いた。
1956(昭和31)年といえば、日本がようやく戦後の荒廃期を脱し、本格的な経済復興に向けて全力疾走を始めた時期である。高まる電力需要に対して供給がまったく追いつかない状況だった。これを打開するためには、今までにない大容量の発電能力を備えた電源設備を各地に造るほかはない。その先駆けとして誕生したのが佐久間発電所であった。
信州・諏訪湖に源流を持ち、伊那谷、天竜峡、遠州平野を抜けて太平洋へ。その急峻な地形と流れから「暴れ天竜」とも呼ばれる川の中流部に、佐久間発電所とその水源となる佐久間ダムは建設された。多雨多雪で豊かな水量に恵まれたこの地域は水力発電の適地とみられ、大正期から開発を待ち望む声が聞かれてきた。だが、洪水期のあまりに膨大な流量と切り立つ断崖などに阻まれて、手出しができず放置せざるを得なかったのだ。
その悲願を達成せよ。昭和27年9月、電源開発促進法に基づき設立されたJ-POWER(電源開発株式会社)に白羽の矢が立てられたのは、開発困難な案件に立ち向かい、電力安定供給への道を拓くことがこの会社の使命とされたからである。
佐久間開発は、わずかに3年の計画。従来工法では少なくとも10年はかかるといわれた難事業の始まりだった。
不屈の努力で奇跡を呼び電力安定供給の使命を果たす
「わが国において類例をみない大工事」(石橋湛山)は翌28年4月に始まり、艱難を乗り越え期日どおり3年で完了した。
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出現したのは、高さ155.5m、長さ293.5mの巨大なダムを擁し、出力35万kWを誇るわが国最大規模の貯水池式水力発電設備である。年間発生電力量は今でも日本トップクラスにあり、超高圧送電線と西東京・名古屋の両変電所を通じ、関東圏・中京圏に絶えまなく電力を供給している。
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完成当時の記録によれば、奇跡ともいわれた佐久間の工事は、海外の技術雑誌などで次のように紹介されたという。
――仮排水路のトンネル掘削において、1日最大掘削量が世界のトンネル掘削史上で第2位、またダム・コンクリートの打ち込みでは、同一機種による1日打込量が世界新記録であろう(一部要約)――
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これを可能にしたのは、アメリカから導入した最先端の機械化工法と数十種もの大型土木機械であった。それまでの常識を覆す、国際入札による外国企業とのジョイント事業方式も採用し、その後の日本の建設業に大きな刺激を与えたといわれている。
佐久間はまた、高度成長期へと向かう日本人にとって自信回復の象徴でもあった。当初、国内外から年間20万人以上の見学者が押し寄せ、行列をなす様はさながら銀座通りのようであったという。
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