「最高の仲間と、1日でも長く野球を続けたいだけだった。プロ野球を目指したことは一度もない」
井川慶は、茨城県立水戸商業高校で多くの高校球児と同じように甲子園を目指し、最後の夏の大会は準決勝で敗れた。進路を決める際、初めてプロ野球が選択肢にあることを知った。
「とにかく当時は腰が悪かった。腰の治療やトレーニングのことを考えると、最も施設が充実しているのはプロ。だから、行こうと思った」
プロ野球のことなど、考えもしていなかった。その証拠に、当時はプロ野球の全球団を言うことはおろか、12球団あることさえ知らなかった。そんな中で指名されたのは、阪神タイガース。縁もゆかりもない土地へ、まさに右も左も分からぬスタートだった。
井川を一流に押し上げた
魔球・チェンジアップ
元々ストレートには定評があった。若く、速球派の左腕というのは今も昔も貴重である。井川は2年目のキャンプから1軍に抜擢され、そこで代名詞となる武器を得る。
「八木沢コーチに、ちょっと投げてみろって言われて、チェンジアップを投げてみた。1球目から、『これは使えるな』と思った」
後に、「フォークのように落ちる」と言われ他球団のライバルを苦しめた井川のチェンジアップは、突然生まれた。3年目の後半戦から1軍に定着し、憧れの甲子園はホームグラウンドとなった。それでも、「甲子園は投げづらい」と振り返るのはいかにも井川らしい。
余談だが、1年目の7月、その月に使ったお金がゲーム雑誌『ファミ通』を購入した390円だけだったことがあるという。食事は先輩がおごってくれる上、特に欲しいものはない。