2024年4月29日(月)

それは“戦力外通告”を告げる電話だった

2017年3月15日

 「最高の仲間と、1日でも長く野球を続けたいだけだった。プロ野球を目指したことは一度もない」

1979年生まれ。茨城県大洗町出身。97年ドラフト2位で阪神タイガースに指名される。入団当初は「野球よりゲームが好きだった」と話し、「野球以外の時間は寮でひたすらプレイステーションをしていた」と振り返る。寮の居心地が非常に良かったそうで、「半ば強引に寮長に退寮を通告されるまで寮生活を続けた」。2002年から5年連続2桁勝利を挙げるなど、球界を代表する投手となり、06年オフにニューヨーク・ヤンキースと5年契約。マイナーで活躍するもメジャーでの登板機会に恵まれず、12年にオリックス・バファローズに移籍。故障を繰り返し、15年に戦力外通告を受ける。引退はせず、16年12月に独立リーグの兵庫ブルーサンダーズへ入団。
(写真・NAONORI KOHIRA)

 井川慶は、茨城県立水戸商業高校で多くの高校球児と同じように甲子園を目指し、最後の夏の大会は準決勝で敗れた。進路を決める際、初めてプロ野球が選択肢にあることを知った。

 「とにかく当時は腰が悪かった。腰の治療やトレーニングのことを考えると、最も施設が充実しているのはプロ。だから、行こうと思った」

 プロ野球のことなど、考えもしていなかった。その証拠に、当時はプロ野球の全球団を言うことはおろか、12球団あることさえ知らなかった。そんな中で指名されたのは、阪神タイガース。縁もゆかりもない土地へ、まさに右も左も分からぬスタートだった。

井川を一流に押し上げた
魔球・チェンジアップ 

 元々ストレートには定評があった。若く、速球派の左腕というのは今も昔も貴重である。井川は2年目のキャンプから1軍に抜擢され、そこで代名詞となる武器を得る。

 「八木沢コーチに、ちょっと投げてみろって言われて、チェンジアップを投げてみた。1球目から、『これは使えるな』と思った」

 後に、「フォークのように落ちる」と言われ他球団のライバルを苦しめた井川のチェンジアップは、突然生まれた。3年目の後半戦から1軍に定着し、憧れの甲子園はホームグラウンドとなった。それでも、「甲子園は投げづらい」と振り返るのはいかにも井川らしい。

 余談だが、1年目の7月、その月に使ったお金がゲーム雑誌『ファミ通』を購入した390円だけだったことがあるという。食事は先輩がおごってくれる上、特に欲しいものはない。


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