「今度は試合に出られるように、最初から真面目に練習しよう」。佐野慈紀は、そう心に誓って広島県呉市にある近畿大学工学部に進学した。松山商業高校時代は、3年間控え選手だった。甲子園で準優勝した最後の夏。地元に帰ってパレードが行われるも、決勝の舞台に立てなかった悔しさが、佐野の心を支配していた。
「なんで使ってくれへんねん、ってずっと心の中で文句言ってた。でも、よく考えたら、レギュラーのあいつら、めっちゃ練習頑張ってたもんな」
父の影響で、楽しくて始めた野球。気がつけば、伝統校の野球部で先輩の顔色を気にし、要領よく練習することばかり考えていた。「試合に出なおもろない」と、甲子園の決勝戦は佐野の心にスイッチを入れた。
大学に進学後、1年生の秋から主戦で投げ始める。たとえ試合に出られなくても、「何が足りなくて試合に出られないのか」と冷静に考え、ひたすら練習した。その甲斐あって、佐野はメキメキと頭角を現した。
「3年の冬前に、目標を決めた。140キロを投げること、練習で手を抜かないこと、選手権で勝つこと、そして、プロを目指すこと」
往々にして、目標はいつの間にか忘れてしまう。そうならないために、幼馴染だった学生コーチと協力し、猛練習に励んだ。佐野は大学での4年間、すべてのリーグ戦で優勝し、自身は通算28勝。防御率は0・4という圧倒的な成績で、近鉄バファローズからドラフト3位指名を受け、入団した。
同学年の野茂から受けた「衝撃」と「説教」
「大砲の弾かと思った」
初めて目の前で見た同学年である野茂英雄の投球は、佐野に衝撃を与えた。
「とにかく、3年は必死に頑張ろう。この人たちと一緒にやりたい」
練習が実を結ぶことを、佐野は体験していた。必死に食らいつき、1年目から中継ぎ投手として38試合に登板し、プロ1年目としては及第点といえる活躍をした。ある日、毎晩のように先輩に連れられ、楽しく夜の街に繰り出していた佐野は、野茂に呼び出された。