東海道・山陽新幹線のグリーン車搭載誌「ひととき」での、6年にわたる長期連載を書籍化。米寿を迎える著者が、古今東西の旅にまつわることば、88個を紹介しながら、日本人にとっての旅の意味を、やさしく解説します。旅の楽しさ、旅のせつなさ、旅のさみしさ。すべての感情が胸に迫り、旅を思って泣きたくなる、それなのにやっぱり旅がしたくなる……そんな1冊です。
<立ち読み>
そもそも「たび」ということばは、どういう意味か。
ふつう、「たび」の語源は不明とされるが、一説に「給ぶ」だという。「給ぶ」は「給ふ」というのがふつうで、えらい人が何かをあたえることを意味する。
しかし神さまが食物を旅人に「給ふ」のだと、唐突に食物だけで旅を決定するわけにもいくまい。
また「他火」というが、これは重箱よみで無理がある。
そこでわたしは、つぎのように考える。古い日本語に「たむ」ということばがある。同じ『万葉集』の、いままで「たぶ」の例とされてきた歌、
あかねさす昼は田たびてぬばたまの夜の暇に摘める芹子これ(巻二十、四四五五)
は、作者(葛城王、のちの橘諸兄)が「昼は民衆の田をきめる役目のために田んぼ廻りをして、公務をおえた夜に田んぼのほとりのセリを摘んだ」という意味にとるのが自然だ。だのに、「天皇が農民に田んぼをあたえて」と解釈してきた。
しかしこの廻ることこそ、タビの原義ではないか。
「たむ」とは廻ることだ。『万葉集』にも、舟が「安礼の崎漕ぎ廻み行きし」(巻一)とか「岡の崎い廻むる道」(巻二十)と登場する。タブとタムの両語は、活用語尾のバ行とマ行の違いだけ。けぶり=けむり(煙)、さびしい=さみしい(寂)、うねめ=うねべ(釆女)、馬場と馬手など、同類はいくらもある。
そもそも「たぶ」と「たまふ」だって、発音がブとマと違うだけで内容はひとしい。
どうも旅とは廻ることらしい、のみならず英語で旅を意味するツアーは、そもそもラテン語のろくろに由来する。ツアーとは元来ろくろのように、ぐるぐる廻ることだった。
日本人も、ごくごくふつうに旅とは廻ることだと考えて、世界の一員になるべきではないか。
さてこの旅めぐりは、本来神さまがなさることだった。日本ではその信仰がいまでも残っていて、お神輿や山車で神さまが移動なさり、旅先のお旅所でおやすみになる。
いやいやフランスでもアルル地方のサント・マリ・ド・ラ・メール教会で、海から漂着したマリア様を海辺までおつれする祭りに出会ったことがある。
こうした神さまの旅は、じつは神さまの神威の領分を示す儀式だった。だから神輿と神輿がぶつかろうものなら、大変な境界争いになる。
いまおもしろがって見ている神輿げんかにも、そんな由来があった。
恐れ多いが、神さまの旅は、川で魚のアユが激しく自分の領分を守るのと同じである。アユのように領分を守り、そのために印をつけることを社会学ではマーキングという。
マーキングにもっとも熱心なのは、今でもよく見かけるように犬である。
犬は和合を嫌い、孤独になりたがる特性があるという。それを「独」というらしい。その習性のままに犬は領界を印してまわる。どうやらマーキングの最初の旅人は神さまで、今日までせっせとマーキングに励んでいる旅人が、人間や犬であるらしい。(第1章「たび」)
<目次>
第1章 旅の誘い
たび/山のあなた/そぞろ神/真旅/轍跡/参詣/巡礼/門出/餞/とうげ/終の祭り/シナゴーグ/アマゾンの奥/セーターの島
第2章 旅する人びと
遊子/行人/渡り鳥/まろうど/花行脚/瞽女/旅の目/濡れ衣/旅のころも/乾飯/わりご/すり/旅箪笥/旅馴れ/旅の日
第3章 旅の路
恋の旅路/分去れ/ひだる神/旅居/旅日記/都鳥/魂乞いのトポス/関/ふるさと/望郷/帰るための旅/帰与/帰去来/家づと/土産
第4章 旅の乗り物
高原列車/登山鉄道/単線/四人座席/食堂車/車窓/トンネル/きつねの夜汽車/夜行列車/月の船/初日の出飛行/ヘリコプターから/水郷めぐり/川を下る旅
第5章 旅をつなぐ駅
駅の風景/停車場/秘境駅/無人駅/夜の駅/道の駅/駅路/やど/はたご/湯治場/鉱泉宿/伝馬船/ホテル/駅前広場/迎え傘
第6章 旅愁
轍の響き/柳行李/湖愁/孤蓬/旅がらす/木枯し/配所の月/旅枕/渚枕/出船/旅だより/惜別の歌/銀河鉄道/航跡/去年今年
あとがき