この熱き人々

2017年9月20日

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吉永みち子 (よしながみちこ)

1950年、埼玉県生まれ。85年、『気がつけば騎手の女房』で大宅壮一ノンフィクション大賞を受賞。著書に『母と娘の40年戦争』(集英社文庫)、『怖いもの知らずの女たち』(山と溪谷社)、『試練は女のダイヤモンド』(ウェッジ)などがある。

かつて銀山の繁栄を支えた小さな町で、都会の文化とは異なる価値を求めて起業。捨てられていくものに光を当て、手間と時間をかけ新たな命を吹き込む。未来へとつながる豊かさの提案が、静かな支持を広げている。
 

 全国に衣料や雑貨を扱う店を30店舗以上展開し、150人余りの従業員を擁する年商20億円の「株式会社石見(いわみ)銀山生活文化研究所」。島根県大田(おおだ)市大森町にある本社の目の前には田んぼが広がり、背後には緑深い山が迫っていた。本社で働く約50人の社員のための食堂や地域交流の場として活用されている、隣接の築270年の古民家「鄙舎(ひなや)」は、茅葺(かやぶ)き屋根の葺き替えの真っ最中だった。

 「暮らす服」として多くのファンを持つ服飾ブランド「群言堂(ぐんげんどう)」の本店も、築200年以上の武家屋敷を再生した予約の取れない宿として有名な「暮らす宿 他郷阿部家(たきょうあべけ)」も、本社周辺にある。世界遺産・石見銀山がある大森町は、出雲市駅から山陰本線で大田市駅まで45分、さらに本数の少ないバスで30分。町には信号もコンビニもない。

 「さらに有料駐車場がない。空いている土地を無料で開放するって、すごいモラルだと都会の人はびっくりするようですね。この町の誇るもののひとつかな。かつては銀山周辺で20万人も住んでいたと言われているけれど、今は人口約400人。ゼロに向かわず、増やすという方向でもなく、自分たちの暮らしを大事にして穏やかさと観光地の落ち着いた賑わいを両立させているんじゃないかと思っています」

 玄関に近い会長室でまず町と人と暮らしについて口にした松場大吉は、1953年にこの町で生まれている。世界遺産に登録されるとは誰も思っていなかった頃、銀を食い尽くして人々が去っていった町には、未来につながる可能性がほとんど感じられず、若者たちは仕事を求めて片道切符で都会に出て行った。

 松場も18歳で町を出て名古屋の大学に行き、そこで就職をしている。が、生鮮食品以外のよろず雑貨を商う店の長男だった松場は、片道切符ではなく、戻る運命の往復切符を持たざるを得なかった。

 「長男だから家を守れ、墓を守れと刷り込まれていたから、帰るために出て行ったってことです」

 帰ってこの地で生きるためには、自分の未来は自分で切り拓いていくしかない。仕事がない以上、自分で起業するしかない。故郷に戻って何ができるのかを模索し続けながら名古屋で10年暮らし、大森町に戻ったのは28歳の時。80年代、景気拡大の真っただ中で、都会に人間も富も集中し田舎はさらに過疎への道を辿(たど)り始めた頃。夢破れて田舎に帰るのではなく夢を持って帰ろうと提唱している松場は、40年前に名古屋で何を見つけ、故郷で何をしようと戻ってきたのだろうか。

かつて鉱山町として繁栄した大森の町並み

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